最近の記事

言葉の間合

 4月30日。武田花さんが亡くなってしまった。定期購読している雑誌〈テクネ〉の表紙写真と見開き2頁のエッセイ(キャプション?)風のテキストが面白くて楽しみにしていた。  花さんの写真はどれも淡々としていてドラマチックとは無縁なぶん、見飽きることがない。被写体との距離が独特で遠くも近くもなく、ボケも入れないからちょっとベッヒャーみたいだ。  それは彼女の文章もそうで、作者の当事者感が微妙に軽め?な設定にしてあるぶん、読む側はさながら覗きからくりを俯瞰しているような気分になる。で

    • 竜がとつぜん(2)

      『窓の外に竜がいる!!』  懸命に訴えたけれど、同乗の両親をはじめ誰もとりあってくれなかった。皆から相手にされずじたばたするぼくをじっと見ていた竜がとつぜん、指を口に当てて「しぃーっ」の合図をしてきた。そして緊張でこわばりながらもなんとか頷いたぼくにニイッと笑いかけるや身をひるがえし、金色の蛇腹をくねらせつつ富士山方向へ飛び去ってしまった。        これが当時9歳のぼくが伊豆半島上空の大阪行旅客機内で遭遇した出来事だ。その後何事もなく到着した機体の横腹に巨大な梵字のよ

      • 竜がとつぜん(1)

         土日の峠の駐車場ときたら車好きの人たちで満杯だ。いわゆる〈走り屋さん〉も多く、そこまでの山道をハイペースで走る車も多い。こちらもそんなに遅くはないと思うが、30年前の老機体で現代のハイパフォーマンス車に張り合っても無意味なので、後ろに付かれたらさっさと4灯焚いて譲るようにしている。要は他の車輌と一緒に走るのが苦手というか、気兼ねなく自分のペースで走りたいだけなのだ。ならばサーキットへ行きゃいいという向きもあるが、コストの問題に加え、あれはあれでたくさんの人達と接触しなくては

        • 素人の特権

           落語に出てくる若旦那の鍼とかそういう手業についてよく言われるのが、 〈好きこそものの上手なれ〉 〈下手の横好き〉  職業適性としては逆なんだが、その種目を「好き」という点は共通してる。ただし、ここでいう適性有無=上手か否か、であるがその程度については不明だ。万人が認める(をどこで誰が判定するのかが悩ましいが)名人上手なら文句なしの有適性だろうが、ではその他大勢はペケかというと、そうではない。そうなるとその職種自体が成り立たなくなるからだ。それで多くの職種で技能のランクが設

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          人生はコマ劇場

          今朝はちょいと急いでたこともあって、ズボンを前後ろ逆に穿いてしまった。つまりジッパー部分が尻のほうに来とるから、さすがに不便でそのまま出かけるわけにはまいらぬ。しかし出立時間がせまっておったので手早くすませようと思い、下ろしたズボンから左足だけを抜いてベルト部分を両手で持ち、全体をぐるりと回して穿き直したのだが、あら不思議。逆さのまんまなのである。 しからばと、こんどは右足をコンパスの針に見立てて身体のほうを一回転させてみたが、やはり結果は同じ。加齢とはかくも哀しいものである

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          後につくのは簡単さ

          金曜夕方のスーパーのレジ。精算待ちの長い行列に加わるかしばし迷う。今日はお気に入りのチョコソース入りアイスクリームのバーゲンセールだが、待っているあいだに溶けてしまわぬか心配のあまり、支払い作業にもたついている連中に向けて殺意を募らせたりするは仏門の身にあるまじき所業である。そもそも民はなぜバーゲンに並ぶのかといえば、値下げ分のお得感を味わうためであるが、それと引き換えに心の安寧を失っては本末顛倒赤字決済というものだ。地元の先輩、ライトニン・サム・ホプキンスも言っている――Easy on your Heel ――と。

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          古い空間

          地方小都市の旧市街で時が停止したような景色に出くわすことがある。とはいえそこの人やモノが、たとえば30年前から今とおなじ外観だったわけではない。通りすがりのよそ者が見られるのは昔の姿かたちではなくて現在進行形の何かだけだ。クソ暑いなかせっかく来たんだからと昭和乞食化するつもりはなけれども、やはりどこを切り撮ってもそれっぽくなる。けっして嘘つきカメラのせいではない。

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          白髪染めではなく

          粉吹エリアをマイクロファイバークロスで磨いて艶出し。これでなのさんぽくなったわいな。こういう作業をする際には、「最後のひと圧しをこらえる」ことが肝要で、ベースが粘着気質な自分のばあい、往々にして念を入れすぎて墓穴を掘ることがしばしばあった。とくにプラスチック製のネジなどを締め付けて固定する際など、不安にかられて最後のひと締めをくらわしたあげくネジ山をナメてしまい、たわけたように空回りしはじめた感触に呆然とするなどなど。

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          ひとり増えた

          この夜、ブコウスキー本を発注したのは長生きを狙ったわけではない。

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          手当ノ事

          労宮を介してREIKOに疑似隠居士真言呪を注力。こちらもパワーダウン気味なので十分ではないが、その分副反応の心配はないのでよしとしよう。

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          昭和の展示物かと思ったら

          現松本幸四郎のお父さん(白鸚)は若いころ染五郎だったが、当時の彼がCMに起用された商品がこれだった。それまでの男性化粧品つうたら柳屋アットレーとか加美乃素Aとかポマードを塗ったくる暑苦しいおっさんのイメージだったから、初めてこれを見たときはまさに先端文化に触れた感があった。けれども当然に田舎のよろず屋じゃ売ってなかったし、通販なんてのは少年漫画雑誌のあやしげな金の延べ棒くらいしかなかったので県境越えた4Km先の町まで未舗装の砂利道をえっちらおっちら自転車漕いで買いに行ったが、なにやってたんすかね。あれから幾星霜、くだらないことに一生の大半を費やしてしまったけど、まあ食いっぱぐれなかった(まだわからんけど)だけマシだったと思わねば。心底自分が好きな事物を見つけるにはそれ用の思考センスが必要なんだけど、これって訓練して身につく代物ではないところがじつに悩ましい。しかもひとつだけってことでもないから余計だ。日本人てひとつごとを一生かけて追求する、みたいな姿勢を賞賛するのが好きだけどじつは不器用で拡張性が無いだけだったりするから。この国は〈職業を選ばなければ食うだけなら何とかなる〉って言われてるがそれは〈自分だけなら〉の条件つき、しかも往々にして楽しくない。だから死ぬまで自分探しを続けたいなら他人を巻き込まないほうがうまく行くんじゃないかな。

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          週刊文春8月4日号 著者は語る『無垢なる花のためのユートピア』川野芽生

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          もう死ぬまでこれでいい

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          驢馬はポニーの成りそこないではない

          なんとなく馬類より軽んじられているイメージだが、機嫌をそこなうと梃子でも動かなくなる頑固さをそなえている、ということで秘めた矜持を持つ一徹な職人気質という感じもする。ただそれは過去のルサンチマン的なものではなく〈今〉を生きるうえでの対応なのだろう(驢馬の思考について知ってるわけではないので確証はないが)。 話は変わるが、じつは中学生くらいまで  わたしのラバさん 酋長の娘  色は黒いが 南洋じゃ美人♫ のラバ=騾馬だと思っていた。なぜ酋長の娘が家畜なのか不思議だが南洋の島ではそういうこともあるのだろうと納得していた。今でいう異類婚姻譚である。その後、ラバ=Loverで戦時中は敵性語だからカタカナにしたのだろうと勝手に思っていたが、最近になってこれも誤った解釈だったと知った。日暮れて途遠し。 https://www.worldfolksong.com/songbook/japan/shucho-musume.html

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          この奥の十字路で

          やってきた悪魔に魂を売り渡せばノーベル文学賞受賞が叶うらしい。

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          日常生活で大声が必要なのって

          頭上の落下物に気付いてない人に〈走れっ!〉と声をかける時くらいなもんじゃないのか。英語でも〈逃げろっ=Run!〉で同じだそうで人間てのは単純な動作でないと咄嗟に反応できないらしい。銃声がしたときは〈伏せろっ=Get down!〉でアメリカ人なんかは言われる前にみんな伏せてると。でまあ、そうではない日常のやりとりで大声が必要なことは基本的に無いんじゃないのか。喉頭炎で辛いとそのあたりしみじみ実感するが、たいていの会話は静かな声で成立する。音量を上げざるを得ないのは片方が難聴気味だったり傍でTVが喚いてたりする時だ。むかしから無駄に声がでかい人間は苦手だ。ましてや地声が大きいことを己の特技と意識してるかのような話しぶりだとつくづくげんなりする。しかもそういう輩の話ってほとんどが自慢話だからね。

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