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避けられない銃口 7/9朝

昨晩作りすぎた味噌汁の鍋に火をかける。
流石に味噌入れすぎたな、と独り言を言いながらその塩水を啜る。
昨晩の時点では、この行為が終わり次第二度寝をして南中の光と蒸し暑さで目を覚まそうと考えていたが、実際起きてみるとそうもいかなかった。
冷蔵庫が壊れたのである。本当に最悪。

避けられない銃口、いわゆる突然のアクシデントはまぁ誰にだってあることだと思う。起こるだけで自分の精神を切り崩していくそれに対して、
どれだけ精神を保って処理できるかが所謂「体力」なのかもしれない。
その点で言えば、私はあまりにも体力がないと言えよう。
たかが朝冷蔵庫が壊れた程度で今日そのものが嫌いになり、
冷蔵もできないデカい箱の中で腐っていく20時間分の労働賃金を、
デカい独り言を呟きながら眺めることしかできなくなるのである。

不幸体質とはどうやら本当に存在するらしく、昔からこのようなことはまとめて起こっている。さらにこれに付属して、私自身による失態で毎日体力が削られている。失敗のない日を探す方が困難だ。
きっと普通の人なら、当然避けられる銃口は避け、アクシデントにはすぐ対応できたりするのだろう。と健康的に暮らそうとするだけで健康を損なう体質の私が持つ、健常者へのルサンチマンを煮え切らない味噌汁に語りかけてる。

二年ほど前、音楽の授業中に友達に言われた「病は気からってマジだと思う」という発言が脳裏によぎった。当時も納得はしていたが、今はそれにも増してその通りだと思った。不幸の看板をいつも掲げているから、それに気づく度適当な私の体はずっと重く、苦しいのであると。
じゃあなんだと、輝かしい大学生活を送る大学生クリエイター(笑)みたいな顔をして元気に過ごせば、この不幸は減っていくのだろうか。
そんな足場が不安定な足場に登りたくはないな、と身震いしてしまう。
人生の目的を個人的な幸福の追求としているが、そのために不安定な足場には登りたくないと二の足を踏み、不幸を甘んじて受け入れている姿勢は矛盾しているように見える。変なことを言ってしまえば、幸福のために不幸や悩みは必要なのではないか、とも思う。それは私の追求する「幸福」が
健康的というよりかは、文化的であろうとしているからだ。

もし心身ともに完全な健康であれば、この競争社会からドロップアウトせず
今頃学歴という血統書を社会から受け取り、資本主義社会の家畜として金とサウナと女とSNSのフォロワーだけを求めて地元のタワマンに住もうと模索していただろう。だが、それができない弱者であるが故に、私は健康よりも文化に幸福の比重を置いた。だから一見矛盾しているこの不幸に対する姿勢も、意味があると自分に言い聞かせている。

「なんで俺だけ」とは全く思わない。冷蔵庫が壊れたりお店のギターを壊したり毎日のように失せ物をするくらい誰だってあることだし、誰にだって銃口は向いていると思わないとやっていけないのだ。
この不幸話を書いている間にも昨日買いだめした二万円分の食材は腐っていく。冷蔵庫の修理代は五万円くらい。冷蔵庫で溶けていた野菜は、常温になってから凄まじい悪臭を放っている。

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