見出し画像

エイジズムが牙を剥く日を恐れている(2/3夜)

あと1時間もすれば、僕は18歳という節目的な年齢から離れ、
19歳といういかにも中途半端な年齢になるらしい(素数故?)
17歳が終わる時も今日と同じように、"18歳"という記号を基準に何か物事について考えていた様な気もするが、今となっては具体的なことは何も覚えてもない。ただその中で確かに言えることは、今日この夜考えてここへ書き出していることと、昨年の今日の夜に考えていたことは、本質的にあまり変化はしていないだろう、ということだ。

僕はとりあえずで19年ほど生きてみたが、このまま生きていて幸福へ辿り着けるのだろうか。また、幸福は辿り着くものではなく、すぐそこに落ちている様なものであると理解してしまって、今までの努力はなんだったのか。と落胆してしまうのだろうか。そもそも"幸福"とは非常に曖昧で取り留めも無い言葉だ。しかし現段階で私は、幸福の姿は個々人が持つ感性や環境、思想によって構成された仏像のようなものだと仮定している。その上で僕のたどり着きたい幸福の形は、生きていて良いと思えることだ。

僕はこの幸福に、今後の人生で辿り着かなくてはいけないと焦っている。
"生きていて良い"と自分の存在を認めることへの抵抗は強く、膨れ上がった劣等感や自己嫌悪が、そのハードルを大きく上げていた。
単に人を愛して人に愛されればいいだとか、周りの人が必要としている、という話で解決する段階であれば、それほど健康なことはない。

結局のところ、現段階でこの上がり切ったハードルの幸福を満たすための最短経路は、自分が存在していても良いと思えるほどの"自分”になることくらいなのだ。
だから誰かの為になるように"ななしき"という名前で活動をしている。
だから人に喜んでもらうために人と関わる。
少しでも自分の存在を認めてあげるために、幸福へ近づくために。
だが、やはり先天的な才能や後天的な努力の差は埋まらないもので、
"ななしき"というキャラクターや、自分の作る作品や話す言葉も、
あくまで17、18歳という年齢に面白味があっただけで、もう2,3年も経てば退屈なクリシェになるだろうと予想している。実際の所、僕は写真や映像は秀でている程上手くも無い。かといってこれから成長するための素養や感性が備わってるわけでもない。全てが中途半端であったと思う。

この中途半端な自分が、今こうして多少の注目を浴びながら活動できているのは、まぁ十中八九エイジズムの恩恵だろうな。と思ってしまう。
19歳と歳を重ねてしまえば、エイジズム的な価値が下がることは当然だ。
今まで目に見えて恵まれていた"武器"が、着実に少しずつ錆び付いていくことが恐ろしいのだ。今はこうして年齢という価値を他の何かに兌換しようと躍起になっているが、上手くいくのだろうか。上手くいったとして、幸福へ近づけるのだろうか。私は人に"若さ"を褒められた時、同時にそのエイジズムが牙を剥く日を恐れている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?