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イグアナが死んだ、俺は泣けなかった。

明日から過去形となるが、私の家にはイグアナが一匹いる。
中学三年生の頃、親に黙ってイグアナを家に連れてきた、
iPhoneのチンケなカメラでは蛍光色のようにも見える明るい緑色で、
目が二重でぱっちりした赤子のイグアナだった。



彼は寒いと死ぬので、その日から年中無休で私の子供部屋のエアコン設定温度は30度固定となった。
好きなご飯を持ってくると近づいてくるようになったり、体がまだ小さい時は部屋で放し飼いにしたりしていた。友達が来ると、嫌そうな顔をしながら背中を触られた。
世話は大変だった、爪は切ってもすぐ伸びるし、体長が1mを超えたくらいから抱っこすると爪で腕がリストカットをしたようになる。
引越しにあたって友達と泊まり込みで巨大なケージを作ったりして、
新生活も一緒に送っていた。だがこの回想の終着点は今日になるだろう。何せ彼は私の不行届で殺してしまったのだから。

ペットが"死んだ"という言葉には違和感がある。寿命以外なら飼い主の監督不行届だから"殺した"が適切だろう。その罪悪感は背負うべきだ。
ペットを殺してしまうことは昔からよくあった。全部語ったらキリがない。
多分6歳くらいの時点で確実に等活地獄行きは決まっていただろう。
初めてのおつかいで渡されたお金のお釣りで勝手にアカハライモリを買ってきて、一年くらいしたら水槽から脱走して洗濯機の裏でミイラになってた。
そんなふうに、今まで色んな生き物を悪戯な理由で飼育し、
その半数以上は殺した。
別に虐待や無理な飼育をしていたわけではない。

映画を見てもちょっと怒られてもすぐに泪を零す私の眼球は、
これに関して一切の泪を出すことがなかった。
中学の時曽祖母が亡くなった時も泣けなかった、あれは寿命だったからか。
でもおかしいじゃないか。たかが2時間の起承転結で泪を流すというのに、
十年以上一緒に暮らしたセキセインコの死には、ただ悲しいと思うだけで、
何かペットロスのようなものを感じることすらないなんて。
「悲しい」と思っているかすら正直な所怪レい。
彼らを殺した時に他人に掛けられる心配や同情、他人の持つ悲しみに対して
失礼の無い求められた態度を取ろうとして、思ってもない悲しみや涙を無意識に演出しているような気がしてならないのだ。これを行わなければ、「冷たい」や「そんな風に思う飼い方をしてるから死んだんだ」「大事にしてなかったんじゃないか」と、十年間で聞き飽きた心無い言葉を掛けられるだろう。ここで私は初めて泪を流す、自分が糾弾されたからだ。
家族のように暮らした生き物が死んだことより、自分に少しの糾弾が行われることで泪を流す私は、あまりに卑しくて自分本位だ。
もしくは、死という絶対的な終わりには諦めがつくが、
それ以外は修復の可能性、希望が見えてしまうから悲しんでしまうのかもしれない。きっと届かない光は見えない方が健康に良いのだろう。

かつて洗濯機の裏でミイラ化していたアカハライモリを見た時、
幼い自分の中で何かが外れた。"生き物はこんなにも呆気なく死ぬ、嗚呼これはもう死体だ”と思ってしまった。あの時私の中でかつてのペットは死体へと代わり、行政上それは生ごみになってしまった。
それから幾度となくペットを連れてきては殺したり看取ったりしていたが、
"殺してしまった、ごめん""寿命だな"としか思わないで死体を埋葬したり
化粧箱に花とご飯を入れて燃えるゴミに出したりしてきた。
その度泣けない自分に嫌悪感を抱いて、私は私が思うほど優しい人間では
無いのかもしれないと不安になりながら独り言のようにゴミ袋に「ごめん」と呟く。十年来、ペットの死とはそのように向き合ってきたし、残念なことに向こうしばらく変わることもできないだろう。あるいは、小さい時感動できなかった映画に、大人になってから感動を覚えるような現象が起こるのかもしれない。

"死"とこのように向き合ってきてしまった私は、
親族や友人恋人が死んでしまった時に泣くことができるのだろうか、悲しむことができるのだろうか。幸いなことに、私はまだ人生で親しい人が亡くなった事はない。だからペットじゃない、ついこの間まで話していた人間があっけなく死んでしまって、死体に変わった時の感情は知らない。
もし君が死んでしまった時俺が泣けなかったら、悲しむことすら出来ずに
1時間後にはTwitterで下らない話で笑みを浮かべている姿を想像したら、
恐ろしくて仕方がないのだ。その姿はまるで人間とは思えない、下らない娯楽に脳みそを支配され、エゴイズムを極めた餓鬼だ。
そんな私が一年後ふと死んだ君のことを思い出したとして、それはきっと暇つぶしで感傷に浸るためのオナホールみたいなものとして君との過去を扱ってしまうと思う。
私が餓鬼になるかどうかは親しい人が死んでみないとわからないが、
当然そんなこと分かりたくはないし、そんな思いを自分がするくらいなら人間であるまま先に等活地獄で金棒によって肉を裂かれ、涼風が吹けば蘇るを繰り返せば良いのでは。とさえ思ってしまう。
親しい誰かが死んだとき、せめて本心から悲しみ泪の一粒頬を伝えば、
私が地獄に落ちた時、人間である少しの証拠くらいにはなってくれるだろう。「結局自分のことばかり考えてるじゃないか。」と声が聞こえる。
葬儀屋が来た、じゃあこの話はこの辺で。


名前は音也
4年間ありがとう、思春期の俺を1番近くで見守っててくれてありがとう、天国でお豆腐いっぱい食べてね。
友人へ
今まで音也を可愛がってくれてありがとうございます。殺してごめん。


追記:この次の日に高一からずっと好きだった
インフルエンサー、所謂推しが亡くなりました。それでもやっぱり泣けなかったのです。





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