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今夜原付で。 5/1(昼

二ヶ月前に二万円で原付を買った。実のところ、キャンプアニメの影響で衝動買いしてしまったのだが、買った名目上、自宅と実家を往復するための足として使うことにした。それくらいの理由がなければ、財布の紐、もといクレジットカードの分割払いの固く閉じられた門を開くには不十分が過ぎると思ったからだ。自宅から実家までは大体3時間くらい、渋滞というか、人間の意識体が混在している環境が心底嫌いなので、大抵乗るのは12時以降の深夜帯だ。この時間のバイパスほど心地良い場所は中々無い、深夜という時間がそう思わせるのか、人間一個体の出せる限界の力から逸脱した科学の速度をその身に浴びることに、カタルシスまたは優越感を感じているのだろうか。幾度となく繰り返される時速30kmのパノラマの中、この快感の理由を探していた。
  "探していた"という言葉は不適かもしれない。実際探していたのはもっと耳障りの良い理由のような嘘で、本当の理由は最初から薄らわかっていたし、本意の理由それ自体特段不思議なものでもなかった。ひとりになりたかったからだ。"独り"か"一人"のどちらかというと、"一人"の方が感覚として近い。人々がコミュニケーションをとることで作られる場の空気、そこからただ一人馴染めずに取り残された状態を孤独、もとい独りと定義しているが、当然そのような環境が心地良いかと言われるとそんな訳ない。最も恐れていることは孤独なのかもしれない、と思うほど、私は独りでいることに不快感を覚える。対して"一人"はどうだろう、深夜のバイパスの端っこを走っていく、車と違って視界は歩行の延長に近いから、景色が流れていくというよりかは、早めの遊歩をしている気分だ。誰も自分に話しかけない、僕は誰にも話しかけない。時々後ろから僕を追い抜く、車という個人の身体性を超えた意識体は、ここまで台数も少ないと、もはや人の気配を感じさせない動く景色の一つだ。信号が赤から緑に変わるように、それに従って進んだり止まったりする。僕は彼らを人ではなく景色として見る、彼らにとってもそれは同じことだと予想する。
 このバイパスに確かに他人は存在する。しかし僕も彼らもお互いの事を景色の一部だと思っているだろうし、彼らが僕を景色として見ている、もしくは視界にも入っていないことに安心する。お互いの干渉のない小さな世界が好きだ。"一人"の心地よさ、もとい時速30kmの快感はこの一点に集約されていると思った。
 教習番号を呼ばれた。仰々しいプロテクターと運動会のようなゼッケンを付けた気怠い身体のギアを一速に入れ、同じように滑稽な姿をした教習生に混じって階段を降りようとする。かくして僕は 、更なる幸福を求めてバイクの免許をとることにしたのだった。
 

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