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読書メモ|岡潔数学を志す人に

人の情緒は固有のメロディで、そのなかに流れと彩りと輝きがある。そのメロディが生き生きしていると、生命の緑の芽も青々としている。そんなひとには何を見ても深い色どりや輝きのなかに見えるだろう。ところが、この芽が色褪せてきたり、枯れてしまったりしている人がある。そんな人には何を見ても枯れ野のようにしか見えないだろう。これが物質主義者と呼ばれるひとたちである
心の芽は外からの塵にもまみれるが、自分のなかからも悪いものができて、そのために悪くなる。この両者から芽を守るのが道義なのである。道義の根本は、ややもすれば自分を先にし他人を後にしようとする本能をおさえて、他人を先に、自分を後にすることにあると言って良い。子供についていえば、数え歳5つくらいになれば他人の喜びがわかるから、他人を喜ばせるようにしつければ良いと思う。
現代は他人の短所はわかっても長所はなかなかわからない。そんな時代なのだから、学問のよさ、芸術のよさもなかなかわからない

生命


こうした智力はどのようにして養うことができるでしょうか。普通考えられるように、数学が上達するためには大脳前頭葉を鍛錬しなければならないのはいうまでもありません。しかし、その鍛錬の仕方が大切だということは案外気づかれてないようです。ちょうど日本刀を鍛えるときのように、熱しては冷やし、熱しては冷やしというやり方を適当にくりかえすのが一番いいのです。そしてポアンカレーのいう智力も、冷やしているときに働くものなのです。
ところが、どうもいまは大脳前頭葉の熱し続け、お菓子の食べ続けで、何を食べても美味しくないのは無理もありません。美味しいお菓子があってそれを食べると美味しいというところがはじめると手軽でよいと思われるかもしれませんが、こうやって始めると最初より2度目、2度目より3度目と段々刺激を強くしていかないと、同じように美味しいとは思えなくなってしまいます。このやり方は花屋の花のように根がついていないのだということができるかもしれません。本だって読むことより読みたいと思うことの方が大切なのです。

数学を志す人に

この月へロケットを打ち込むということの意味を数学の面から考えてみると、これはもはや人の手を離れているが、ひっきょう人の働き、頭の働きのなかである。本質は人の頭の機械的な働きを複雑にし、早くするという方向へ伸ばしたものである。だからこの場合、機械が現在やっていること、将来機械にやらせそうなことは教えなくてともよいのである。ところがいま文部省がやっているのは、この機械のやることを人ができるだけやるように教えているのだ。
これに反して、いまひとが非常に軽くみているものに奈良とか京都とかの本当のよさというものがある。日本の本当のよさ、例えば古都の日差しといったものが失われることは非常におそろしい。つまり情緒の中心をそれに調和させることができなくなるからである。
古都の秋の日差しのわからないものに、真善美といってもチンプンカンプンである、善とはよいことではなく、美とは美しいということでは決してない。人が追い求めてやまないもの知らないはずだのに知っているような気のするものなつかしい気のするもの、である。

ロケットと女性美と古都

この松原があと微分幾何の単位だけとれば卒業というとき、試験期日を間違えてしまい、来てみるともう前日済んでいた。それをきいて私は、出題者の同僚にすぐに追試験をしてやってほしいと随分たのんでみた。しかし、それには教授会の承認がいるなどどいう余計な規則を知っていて、いっかな聞いてくれない。そのときである。松原はこう言い切ったものだ。「自分はこの講義はみな聞いた。これで試験の準備もちゃんと済ませた。自分のなすべきことはもう残っていない。学校の規則がどうなっていようと、自分の関しないことだ」と家へ帰ってしまった。当然、卒業証書はもらわずじまいだ。当時卒業免状をもらわないで数学を続けるのは相当困難だったに違いないが、その後消息を聞かない
大衆のこころの不変の特徴は、ものの欠点だけが目につくこと、不公平が承知できず、また、まったくこらえ症がないことである。そして悪いのは自分でなく他人だと思い込むことである。
私の父は一貫して数え5つの年から自分の死にいたるまで一貫して「他を先にし、自分をあとにせよ」という道徳教育を施した。また父は私を学者にするつもりだったから、金銭に一切手を触れさせなかった。この効果はてきめんで、私は今日まで一度も金銭に関心を持った経験はない。このように私たちより少し前のひとたちには実によく善行の特質を知っていて、それがすこでもやりやすいようにいろいろくふうして家庭教育をしてきたと思われる。
動物性の侵入を食い止めようと思えば、情緒をきれいにするのが何よりも大切で、それには他のこころをよくくむように導き、いろんな美しい話を聞かせ、なつかしさその他の情操を養い、正義や羞恥のセンスを育てる必要がある

日本的情緒

ところが、戦争がすんでみると、負けたけれども国は滅びなかった。そのかわり、これまで死なばもろともと誓い合っていた日本人どうしが、われがちにと食糧の奪い合いを始め、人の心はすさみ果てた。私にはこれがどうしても見ていられなくなり、自分の研究に閉じこもるという逃避の仕方ができなくなって救いを求めるようになった。生きるに生きられず、死ぬに死ねないという気持ちだった。これが私が宗教の門に入った動機である。

宗教について

まず、戒律を守らせる教育である、時実利彦著『脳の話』を参照していえば、大脳皮質は古皮質と新皮質に大別され、古皮質は欲情の温床であってサルなどとあまり違わないが、新皮質は人の人たるゆえんのものをつかさどっている。サルなどの古皮質には、いわば自動調節装置が備わっていて、おのずから節度あるようになっているが、人には全然その装置がない。そのかわり人には大脳前頭葉に抑止する働きが与えられていて、この働きを使って欲情や本能を適度におさえることができる。
第二に国の心的空気を清らかに保ってほしい。街にごみを捨ててもまあ大したことにはならないが、国の心的空気を汚すと、それがただちに子供たちの情緒の乱れとなり、それが大脳の困った発育状態となってあらわれる。そうであるのに、まるで汚さなければ損だと思っているかのように汚しているのが現状である
こららの点を十分につとめても60年後には日本に極寒の季節が訪れることは避けられないだろう。(執筆時の1965年の60年後は2025年です😅)
教育はそれに備えて松柏のようなひとを育てるのを主眼にしなくてはならないだろう。(松柏は常緑樹、常緑樹が1年中葉の色を変えないことから、りっぱな人物が逆境にあっても節度を変えないこと)
「文部省は、将来大学の入学試験を一本にして、試験問題は能力開発研究所から出す方針で反対する大学を説得中である」というテレビのニュースをみて私は耳を疑った。そんなテストは、考えもしないで答えてしまう衝動的判断の能力を調べるだけで本当の智力とはなんのかかわりもない。お母さんたちは目の色を変えて満2−3歳のこどもに衝動的判断力を増す教育をはじめるだろう。そうするとどういう恐ろしい結果になるか、わたしには想像もつかない。たぶんこどもたちは小さいうちに頭が固まってしまい、カボチャが小さいままひねてしまったようになるに違いない。

六十年後の日本

日本に一人の百姓がいる、山の上に畑を開き、少しばかり大根を蒔き、生えるのを待って遠くの家から肥やしを運んでかける。この労作が百姓の大根に対する愛情を生む。百姓は愛する大根のためにせっせと肥やしを運び続ける。愛情は段々育つ。ある夏の朝、遠い家から愛する大根のために重い肥やしを運んできてみると、大根はすっかり元気で、葉の緑に一面に露の玉を宿して、あたかも昇ってきた太陽を受けて、キラキラと本当に嬉しそうにしている。百姓はこれで私が大根に尽くしてやったまごころがすっかり報いられたと思う。無上の幸福を感じるのであるが、当人にしかわからない。だから「自作自受」という。日本の百姓の不思議な勤勉さはこれによるのである。
私は工場の職工さんはどうだろうと危惧の念を抱いた。それでソニーの厚木工場を見に行った。ここの職工さんの大部分は東北の田舎からでた中学校を終えたばかりの娘さんである。トランジスターの部分品を作っているので非常に細かい細工なのであるが全く「無心」に働いていて、目にも頬にも生気が溢れている。型を変えるときに古い型に別れを惜しんで泣くということである。ここでも「自作自受」はよく行われている。こんな風にして三年もいると顔も仕草もすっかり麗しくなって、郷里へ帰るとお嫁に引っ張りだこだと工場長は話した。私は嬉しくて涙がでた。働くことがなんともしれず心楽しければもはや労働階級ではない。論より証拠、厚木工場労働組合は、自主的に一人減り二人減り、コチコチの共産主義者3人だけになってしまったとうことである。

人とはなにか

夢中で読みました。
泣きながら読みました。
子供達に聞かせたいけど、たぶん、わからないと思う。
最後に松岡正剛さん(このかたはご存命でNewsPicksのRethinkなどにも出ています)の言葉を引用します。

岡潔は日本人が何を学び直すべきかにということを考え続けた、そして「命を感じるような数学者」になろうと心掛けてきた。そこから発した文書は、いま読んでも泣きたくなってしまう放埒が迸っている。

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