最高のおとな
大人になるって、何かを失っていくことだと思っていた。だから私はずっと、大人になるのが怖かった。
年齢を重ねるごとに、たとえば夢とか、趣味とか、うつくしさとか、そういう「かつては大切だったもの」を徐々に手放し、つまらない人間になっていく。
近くでそういう大人をたくさん見てきたし、ただ若いからというだけでそういう人から羨まれて、嫌な思いをしたこともたくさんあった。
あんな風になってしまうのなら、大人になんてなりたくない。だからここ数年は誕生日を迎えるたび、なるべく早く死ねますように、と心の中で願っていた。
私は、どんな小さな夢も捨てたくなかった。いつまでも何かに夢中になれる自分でいたかったし、うつくしさとは若さだとばかり思っていた。
この一年間、ある文章教室に通った。文章教室といっても、多くの人が思い浮かべるようなかしこまったものではない。
生田駅から徒歩20分、急勾配な坂の上の情緒あふれる家屋の居間で、それぞれが持ち寄った文章を音読し、感想を述べ合う、というとても和やかな会だ。
趣味で文章を書いていると「なんのために書いているの?」と聞かれることがある。「仕事にしたいの?」と言われたこともある。そのどれにも、私はうまく答えることができなくて、けれどそんな疑問、この場所では何の意味も持たないことのように思えた。
ただ書きたいから文章を書く。生活をするように言葉を紡ぐ。そんな人たちに囲まれて、私ははじめて自分の存在がすっぽりとはまる場所を見つけられたような気がした。
いろんなテーマの文章を持ち寄った。様々な視点からデッサンして紡がれる言葉は、とても個人的で、チャーミングで、時に刃のようでもあり、ただ純粋におもしろかった。
それぞれの書き手が、それぞれの人生を通じて獲得してきた言葉や感性が、白い紙の上で踊る。
私たちは「私たちだけの言葉」を紡ぐために、長い人生を生きているのではないか。そんな壮大なことを考えてしまうくらい、他人の文章を読むことはおもしろかった。
この場所へ来て次第に、自分の中の”大人”に対するイメージが変わっていくのがわかった。
私はずっと、いつか自分が若さを失ったとき、こうやって文章を書くことも自然となくなっていくんだろうな、とばかり思っていた。
しかし、教室にいたのは皆、私よりもずっと人生経験を詰んだ”大人”たちで、彼らは私の知る”大人”とはちょっと違っていた。年齢を重ねているのにも関わらず、何も失っていない、まぶしくて大切なものをずっと持ち続けている人たちだった。
それがまるで希望のように感じられた。私はこれからも、書き続けていいのか。そう思えたのだ。
今は前より少し、大人になるのが怖くない。夢は年齢や環境によって変わりゆくものだし、心の豊かさを失くさなければ、好きなものを持ち続けることはできる。そうやって育んだ心の豊かさが、いずれ私のうつくしさになる。
その上、長く生きれば生きるほど、夢も、趣味も、うつくしさも、どんどん選択肢が増えていくだなんて、こんなに素敵なことはない。
これからも私は文章を書く。時間を重ねるほど、私の言葉は豊かになる。そのためには時に苦い汁もすすって生きていこう。
そう思えるのはこの文章教室で出会った、たくさんのうつくしい”大人”たちのおかげだ。
大人になるって、何かを失っていくことじゃない。人やものとの出会いを通じて、たしかな自分を獲得していくことだ。
思い描く”大人”までの道のりはまだまだ遠い。彼らの足あとを頼りに私は、階段をひとつずつ、ゆっくりと、上がっていく。
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