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評価と、誉められる教育

わたしは、なぜ、この職業についちゃったんだろうと、しみじみ思うときがある。

人前に出て話すのが苦手て、相手にどう見られるか本気で苦手で、なにか人前で発表する以前も以後も、ずっと、もやもや、どうしょうどうしょうと、落ち込んでしまう。

子供のからずっと思っていた。教室の隅にいて、誰にも注目されず、忘れられてるような存在でいたいと。そして、自分のしたいことに集中したいと。

そもそも、めちゃくちゃ教員になりたくてなった人間ではない。

研究をやっていて、その結果で、教育にもかかわるようになっただけなのだった。

こんな思いをするんだったら、教育なんて、面倒だなと正直思ってしまった。


昨日からずっと落ち込んでいる。

年度末のアンケートに、誹謗中傷をかかれた。

テストの点数が、悪かった生徒だということは、想像がつく。

匿名でできるそれは、顔の見えない悪口で、snsの誹謗中傷に近い。

授業の内容や評価の方法などはどうとしても、教員の人格を否定する文言を簡単に書けるのだから、いまの若者はそういう気質がすくなからず、あるんだろうな。簡単に書けてしまう感性。

いまの若者は、誉められる教育できてるせいか、
評価されることに、慣れていない。

簡単に褒められてしまうから、
必ず褒められるように自分はできていると思い込んでいる様子。

一方で、すごく自信ない面も持っていて、劣等感の裏返しで、他人をたたく模様。

しかし、それは学校の中だけ。

社会にでたら、
プロの本当の評価は、逆だ。

ダメ出しがほとんどで、
褒められる方が、珍しい。

そのダメ出しに、打たれながらも、諦めず磨いていく推敲の過程、
精錬の過程で、
やっと自分も、
自分の作ったものも成長していく。

その結果が、誉めるにたる内容に磨かれる。


ひとつの答えのある問題しか、やりたくない。

試験に出る内容しか、授業でやってほしくない。

試験に出ないなら、学ぶ意味がない、と本気で思っている。

教科書やノートも、すぐ捨ててしまう。


昔の人間には、考えられない。

学ぶ、って、学校の成績で良い点数とるだけじゃなくて、
そもそも知識や教養、好奇心、知的探求心を磨くことなのだ。

人間としての知恵や教養を身につけて、自分の知的な観点や批評精神をもつためなのだ。

試験は、あくまで、授業内容がどれくらい身に付いたかの度合いを確かめるための単純な機会なのであって、そもそも良い点数をとることが目的ではない。

最初から良い成績とれて、当たり前とは、ぜんぜん思わないのだけど、
いまの子はそうではない。

ゲーム感覚で、優がとれて、当たり前みたいな。

就活のときに、内申をみられるからと、優がほしいのだろう。

では、それならそれで、もっと必死になるべきで、どうしたら優がとれると、事前に教員に尋ねる熱心さがあればいい。

しかし、大抵は、
自分は受け身でいて、点数が振るわなかったら、教員に責任転嫁してくる。

問題がおかしいとか、講義の内容がそのまま出てこなかったとか。まったくのナンセンスである。

いまの子は、メモ書きすら、しない。

教科書やプリントに書いてあることだけから、
テスト内容がでてくると思ってる。

昔は、
先生から配布された、箇条書きのレジュメに、先生が淡々と話す講義を自分の手で書き込んでいく。

テストは、講義の全てからだった。

それが、私の世代の大学の授業だった。

教科書もパワポ資料も、皆無だった。

親切すぎる教育が、受け身の若者を作り上げてる気がするのは、私だけだろうか。

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