フジロックを通して見るオーディエンスに求められてること。を考える。

フジロックが終わって、ひどく虚無感である。

私は会場に行ったわけでもない、むしろ家から一歩も出てない。何時間もyoutubeで見ていただけ。幸せな時間だった。フジロック終わってからずっと気がかりなことがあって、それはオーディエンスのノリが悪かったこと。不機嫌に見えたけど必死に盛り上げようとしてたN.E.R.Dのファレル。ツイッター見てたら、会場では結構盛り上がってたらしい。ファレルの件はアジカンのゴッチもツイートしてる。これを日本オーディエンス問題としたい。

実際ライブハウス行っても、ダンスナンバーなのに踊ってない人とか、前の方でただ棒立ちの人とか楽しそうじゃない人とか目について、なんで今日来たの?って人いる。音楽にノってない人結構いて、冷める。

私は音楽は開放で救済だと思っていて、プレイヤーだけが音楽を表現してる、自分を解放するのじゃなくて、音楽を聴いて、悲しくなったり楽しくなったり高揚感や焦燥感、もう戻れないことに気づく懐古感、未来感で最先端でイキること、それってすべて自分を解放してるってこと。ライブは歌っていいし泣いていい、踊っていい、この音楽が、このアーティストが好き!!ってゆう感情を爆発させていい場だと思ってる。ただ立ってるだけの周りに合わせなくていい。

「ロックンロールは、別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし、逃避させてもくれない。ただ、悩んだまま躍らせるんだ。」ってピート・タウンゼントの言葉があるけど、言葉のままの意味で受け取ったらけっこう酷いこと言ってる。だって何も解決してないから。でも、ロックンロールで動かされることってあって、どうしようもなく動けない時に、突き動かされることがある、動く意味をくれることがあって、それはロックに救済されてるってこと。

オーディエンスはもっと自由でいい、もっと踊ろう、そして歌おう。音楽は自分自身の解放だよ。

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