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うたプリ「ファウスト ラストカンタータ」感想のような考察のような 

 この記事は、うたの☆プリンスさまっ♪ Dramatic Masterpiece Show「ファウスト ラストカンタータ」を聴いて、原作「ファウスト」を読んでの感想や考察のようなものをまとめたものです。

 ※CD、台本類、原作、展示のネタバレしかない。

 全体的な感想としては、難解で複雑、詩としての言葉の美しさを重視した原作に明確なテーマをつけて、普段こういった作品に触れない人でも気軽に名作を楽しめる作品だと思った。
 この「楽しめる」はそれこそライブステージを観て感じる、喜びや興奮感動などの喜々としたものではなく、原作の持つ重厚感、人生という誰しもが歩いている道の中にある嘆きや悲しみ、苦しみのなかにある喜びを手に取るように感じられる「楽しみ」である。
 ライブステージでの喜々としたパフォーマンスと変わらない熱量でこのファウストを魅せてくれる彼らは本物の「アイドル」だと心から嬉しく思った。

 以下、シーンで気になったところや、人物についての考察。
 原作を1度だけ通しで読んだ状態(現在、訳を変えて2周目)で書いているため、原作からの情報や解釈は不十分であったり、誤っている可能性があります。


台本【神と悪魔の賭け】

 「人生は舞台」というセリフのセレクト、シェイクスピアかと思った。
 実際、ゲーテはシェイクスピア作品が好きらしく、原作にはシェイクスピア作品を基にしたシーン(オーベロンとティターニアの金婚式)がある。
また、原作の前狂言(座長などが話すシーン)から取っているのかも。
 人の生涯を描く作品においてその世界を舞台と表する手法は、これからリアルに近いフィクション、非日常へ入っていく高揚感があったり、舞台であることで自分が入り込みすぎない、第三者であることを思い出させてくれるおまじないのような効果があるような気がする。

台本【人間の限界】

 黒崎さんの老人のしわがれた声のお芝居がすごい。この声音で紡がれるファウストの悲痛な願いは確かに膨大な物語を動かせるエネルギーを持っている。

台本【成功者の苦悩】

 ここの二人の会話の様子からファウストとワーグナーが似たもの師弟であることがわかる。

 原作のファウストには他にもファウストを師と仰ぐ学生がいるようだが、親密そうな弟子はワーグナーのみのよう。しかし、互いに親密という意識はない。二人が持つ人間関係の課題は「互いに相手を信じることができず、自分の殻に籠もっている」ところだと思う。親密というよりは同じ弱点を持っている者同士、他者と話すより気が楽なんだろう。

 台本p.18~20の二人の様子はなかなか面白い。ワーグナーお得意の親友語りに対して、かなり苛立ちを隠せていないファウスト。演劇でわかりやすく表現しているにしても、あのファウストの激しい言葉遣いを聞けば、「あ、やべ」くらいは思うだろう。しかし、自分の世界に入ったままのワーグナーは、そのファウストの不機嫌を流して、このあとの物語のキーとなるファウストの強烈な語りに対して、反応し、返事をしている。
 ファウストもファウストでワーグナーの聞いてもいない話を流すでもなく、受け入れている。互いに相手への関心の少なさがちょうど釣り合っているからこそ成り立つ関係性なのだろう。
 
 また、このシーンではファウストの親切で実は懐が広いところが見える。常に陰鬱に支配され、強い怒りの感情を見せるところが多いため、わかりにくいが、若いワーグナーに対し、自分の経験から得た考えを分け与えるように述べたり、素直に感謝の気持ちを伝えたり、老いによる鬱がなければ、めちゃくちゃ良い人なのだ。原作でこのシーンにあたる部分や、自室での問答の間に挟まれるワーグナーとの会話などでも、ワーグナーを揶揄する(自分と似ているため)言葉もあれど、若いからといってさじ加減をするでもなく、ワーグナーの問いに対して誠実に自分の考えを述べたり、教えたり、対等な立場で話をしている。研究者だけでなく教授としての才も持った人物なのである。

 ドラマでの ” あの癖 ” を目の前でされたら、ちょっと引いてしまうが、彼が街の人々に慕われ、若返り後に起こすあれこれ(原作軸)が上手くいくのは、悪魔との契約以前に、きちんと彼に魅力があるからなのだ。

余談
 原作で好きなのは、ファウストがワーグナーには(というか誰にも)秘密で自室で地霊召喚してるところ。ワーグナーに呼ばれることで邪魔が入った!ってなる(その直前に失敗していたが)。部屋でこっそりエロ本見てた男子かよ。
 ワーグナーに信頼がおけ、ある程度友情を築けていたら、一緒にやろうぜとなるはずであるが、こうしたところにもこの師匠と弟子の関係性が見えると思う。
 というか、人生を嘆いて、怪しげな術に関心を持ったり、自殺未遂を起こすところ、ファウストさんはかなり限界がきている。神、悪魔にこの人を推薦すな。可哀想だろ。

劇中歌「契約成立」

 曲調が良い。ミュージカルだ。どこかの箱で観たミュージカルだ。
(なんで生の現地がないんだ……。)

 このツイート良すぎ。


 ドラマ版では紙の契約書に対して、ご冗談をと言うメフィストだが、原作ではむしろメフィストが紙の契約書にこだわっている。男に二言はない、俺が「時よ止まれ、おまえは美しい」と言ったらおしまいだとRockに宣言するファウスト氏に対し、紙はなんでも良いから血を一滴垂らした契約書をくれと言うのだ。そして、最後の最後、ファウストが契約を不意にして天へ昇っていくところで、この契約書を取り出し、契約したのに!!!!と悔しがっている。

 それほど重視しているものをドラマ版で否定しているのは、血の契約の重苦しさがドラマの尺に合わないから、堅苦しい人間の常識を持ち出すファウストと対比させて悪魔らしさを出す演出、ペーパーレス時代の現代に合わせたなどを考えたが、それ以上に納得感があるのは、原作のメフィストとドラマ版メフィストの目的の違いである。

 まだ原作の読解が追いついていないため、漠然と感じているものだが、この物語の一番大きな枠組みは神に完全に遊ばれている *中流悪魔のストーリーなのだ。ドラマ版も原作も、大きな神という存在に小物ながらちょっかいを出して、一方的に勝負に乗り気になっているメフィストだが、原作のメフィストはファウストの魂を得ることにこの長い長い物語分の時間を掛けるほど執心している。その執心っぷりから、よほどファウストという人物の魂が上質で心から欲している、または神との勝負への真剣さを読み取れる。

 それに対して、ドラマ版のメフィストは目的として第一にひまつぶし、と嶺二さんがはっきり記しているのだ。この書き込みの順が優先順位というわけではないが、これはかなり大きな理由だろう。そして、原作メフィストとの大きな違いとして、ドラマ版では契約数を伸ばし、より多くの魂を得ようとしている(これがその他、の目的なのだろうか)。もちろん、ファウストの人生を引っかき回すためではあるが、それでもはっきりと、他の人物(ワーグナー、マルクス)に契約を持ちかけているのだ。これはドラマ版の尺の中で展開を広げるファクターとして重要なメフィストフェレスに課された宿命である。
 なお、原作のメフィストも描写のない裏で、上手く事を運ぶために他の人間と契約を交わしている可能性はある(私が見逃している可能性も多分にある)ため、私がこれほど熱心に書き記したことが検討違いであったら申し訳ない。見逃してください。
 
 まとめると、ドラマ版メフィストは魂譲渡の契約数>神との勝負であるため、わざわざまめまめしい紙の契約書なんざ、いらねえ!と言っていると私は感じたのである。
(結果的に原作よりもRock指数が高いメフィになっているのが面白い。れいちゃんらしい悪魔だ。)

追記! 
 魂譲渡の契約数>神との勝負と書いたが、マルクス死後、メフィの誘惑通りにならなかったファに対して、さらにファを追い詰めるために、マルクス、ワーグナーと契約をしていたため、契約数を伸ばすは結果論になっていた。上記の論はやはり少し考え直す必要がある。とりあえず、原作とドラマ版でメフィの目的(性格と捉えた方が良いのかも)はちょっと違うってかんじです。

*作中の悪しき者たちとメフィの関係などからかなり大物の力を持った悪魔であるが、自分と神との力関係を顧みず喧嘩を売り、自ら動いて人間を誘惑するところから中流と称した。自分は地獄から動かず手下に命令を下す王のような悪魔が他にいることを前提とした考えである。

台本【若返りの薬】

 これはかなりこじつけであるが、原作ファウストは魔女の家にある鏡に映った女性(マルガレーテかはわからない)に夢中になる。皮肉なことに、ドラマ版の魔女は、マルクスと兼役の藍くん。魔女とマルクスでどれほどビジュアルを変えたのかはわからないが、ドラマ版ファウストもこの魔女の家で出逢っているのだ。
 それにしても、藍くんの魔女はずるい。

マルクス

 ※シーンごとだとまとめにくいので、ここからはキャラクターでまとめます。

 まず、これだけ言わせて。藍くんと海 エモ!!!!!!!

・マルガレーテ

 彼がマルガレーテであることは疑う余地もないであろう。簡単に原作のマルガレーテがどんな存在か述べると、ファウストが一目惚れして愛人にした女の子である。ドラマ版では男性であり、アイドルのイメージとしても恋愛の要素をどう描写するのか、発売までハラハラしていた。そして、ドラマ版では友人、友情という言葉に置き換えられていたが、どう見ても恋模様だ。

 台本 p64~p77、CD 8.青春の謳歌、9.希望の花 を参照されたい!!!!
どう聞いても乙女ゲームの甘いボイス、恋に落ちてる人のモノローグ、
特別な人との満たされた会話、好きな人と行くお祭り。脚本もお芝居もまったくお見事である。これほどわかりやすい表現があるだろうか。

 ここで、原作にあった描写の話をしたい。
 まずは「デイジー」。原作のアスターの花をマルガレーテが摘み、ファウストの目の前で「好き、嫌い」の花占いをしてみせるシーンは有名である(らしい)。マルガレーテとファウストの恋人のシーンとして最も印象的なこのシーンを思わせる行動を挟むことで、マルクス=マルガレーテが完成する。
 また、藍くんのメモにあった花言葉のなかには「純潔」があり、デイジーを渡す=純潔を渡すとも読めるのだ。ドラマ版のふたりは性を知への探求に置き換えているが、裏を読むときちんと原作を感じることができる。

余談:原作の訳違いを購入する際に参考にしたこちらのブログ様の「花占い」シーンについての記事がとても面白かったため、共有します。


 次に「ワルプルギスの夜」。ドラマ版では「年に一度魔女が集い、おかしな仮装をして夜明けまで乱痴気騒ぎをする祭り」とされている。このワルプルギスの夜の内容自体はあまり重要ではない。なにしろ、原作ではほとんどが風刺になっており、非常に難解な箇所だからだ。注目したいのは、原作の時の流れで、ファウストとマルガレーテが出会った秋(アスターは秋の花らしい)からワルプルギスの夜(5月1日の前夜)までの時間が経っている。また、マルガレーテの臨月が近いことから、原作のワルプルギスの夜が展開されるのは、ファウストとマルガレーテの出会いから1年と半年ほど後のことなのだそうだ(参考:原作の注釈)。
 ドラマ版がこの「ワルプルギスの夜」に触れたのは、原作への興味を引き出すためでもあるだろうが、原作での1年と半年ほどの時間を 台本【運命の相手】~【幸せな時間】(丸1日)間で縮めたと考えても面白いのではないのだろうか。

余談:原作のワルプルギスの夜が意味わからなすぎて、拝読した解説note様です。ワルプルギスの夜の他、全体の構成や予備知識の解説など、大変勉強になります。原作に挑戦している方はぜひ。

 そして、ドラマ版のふたりは「生命の創造」に明け暮れていく。台本でのこの描写はいずれも【夢の続きーマルクスの研究室・夜ー】【魂の在り処ーマルクスの研究室・夜ー】と夜であり、マルクスは大切な人を失った経験から生命の研究を始め、この経験から「限りある時間のなかで愛する人たちと共に生き、共に死にたい」とファウストの「永遠の生命」を否定している。
 しかし、この志を歪め、永遠の生命を求める姿は、原作のマルガレーテの母への裏切りに似ている。マルガレーテはファウストの求めに応じて、母に眠り薬(毒薬ではないと渡された)を盛り、夜の逢瀬を繰り返していた。結果的に母親はこの薬が原因で亡くなる。マルクスが志を歪めることはマルクスが過去に失った大切な人(両親や兄弟だろうか)への裏切りなのではないだろうか。

 この後、原作のマルガレーテはこの夜の逢瀬から新しい生命を宿し、母と兄また世間(宗教)からの呵責に苦しめられ、生まれた子を池に沈めて殺した罪で牢獄でひとり処刑を待つ身になる。その牢獄へメフィストの力を借りてやってきたファウストだが、既にマルガレーテは狂っていて救出を拒否した。マルガレーテは天の国に救いを求め、赦されて、迎え入れられる。この時のファウストの嘆きは原作もドラマ版も変わらないだろう。

読み飛ばし推奨!こじつけ追記 
 台本【かけがえのない存在】のファウストとマルクスが出会うシーンは原作のファウストとマルガレーテが初めて会話するシーンと隣の女の家で再対面するシーンに似ている。

 原作のふたりが初めて会話するシーンは通りすがるマルガレーテをいきなり呼び止めて「家まで送ろうか」と言うのだ。マルガレーテはもちろん断るのだが、その理由は照れ隠しとあんなにかっこいい人が自分なんかに声をかけるわけがないというものである。どこがドラマ版に似ているのかというと、ドラマ版で初めてファウストに会ったマルクスもその場では打ち解けようとせず、後日と日を改めているところ。待って、ここで読むのやめないで!

 そして、隣の女の家で再対面するシーンはファウストとマルガレーテの間にマルテ(隣家の女)とメフィストが入り、2対2で話すことによって丁寧に関係を作っている。ドラマ版ではギスギスの元となるシーンではあるが、2対2の役割は原作と変わらない。
 願えばすぐにマルガレーテを得られるのではなく、人間らしく順当に関係を作り、最終的に手に入れる。何気ないことだが、このシーンがドラマ版でも再現されることはメフィストを描くうえで重要ある。このことから、原作でもドラマ版でもメフィストはギリギリに焦らした方がHotになる主義だということがわかる(このパートの担当ではないが)。

 しかし、ドラマ版のこのシーンにおいて最も重要なのはQUARTET NIGHTの4人が集結することだ。胸アツ。

 また(まだあるんかい)、台本【運命の相手】のモノローグは原作の庭を行きつ戻りつしてるシーンを思わせる。

・ホムンクルス

 一度死を迎えたマルクスはワーグナーとメフィストの手によってホムンクルスとして蘇る。原作ではワーグナーがひとりで生成している。ちなみにドラマ版ではセリフとして「ホムンクルス」という呼称は出てこない(確認したつもりだが、もし出てきていたらすまない)。台本のタイトルやト書き、書き込みにははっきりと記されている。

 原作のホムンクルスのシーンで取り上げたいのは、自由を求めてワーグナーの元を離れるところ、生命の源である海に惹かれて波に溶けてしまうところだ。

 原作ではワーグナーと対立するようなやり取りはないが、学問や研究漬けのワーグナーに対して、外の景色を見たい、外で刺激を得たいホムンクルスはお互いに反対の立ち位置にいる。ホムンクルスがワーグナーの元を離れる間のワーグナーの言葉は受け身であり、ドラマ版の後に再読すると確かに気弱なようにも見える(ホムンクルスの喋りの勢いが強すぎるため、なんとも言えないが)。ドラマ版のマルクスの性格の反転、また自分の心を取り戻しファウストとワーグナーを置いて、研究室から飛び出すシーンはなんとなくこの原作描写と重なる。

 生命の源の海に溶ける最期を迎えるホムンクルスは、台本【幸福と不幸】のマルクスとワーグナーの出会いと重なるだろう。海の中に入っていこうとするマルクス(ホムンクルス)を止めたワーグナーはまさに「命の恩人」なのだ。そして、マルクスの本当の最期も海で迎える(既にファウストの銃で息絶えた後になるが)。

マルクスの返事のように波の音がする。

台本p160

 ワーグナーの言葉に対しての台本のこのト書きは非常に美しい。

余談:ホムンクルスの最期の表現は原作ではとてもわかりにくい。そもそも、その章がミュージカルのように詩歌、詩歌、詩歌表現なのだ。なんか登場人物歌ってんなーと何気なくページをめくっていると、ホムンクルスは溶けてしまう。このホムンクルスのシーンは訳によって印象が違ったので、読み比べをするには個人的におすすめである。(私が読んだのは新潮文庫:高橋義孝訳、中公文庫:手塚富雄訳)

 また、ホムンクルスに関してもブログ様や論文様を拝読しました。
 こちらのブログ様のホムンクルスという存在の考察が面白いです。

 こちらからpdfでダウンロードできる論文様は読み応えばっちりで、現実世界でのホムンクルス製造の歴史からファウストのホムンクルスの扱い、登場人物から読み解くホムンクルスの存在について書かれています。p24(通し番号114)の最初の三行の「海に融けたと表現されたホムンクルス」に対する新たな可能性を示唆する記述には夢、そして海と生命の神秘を感じます。


・エウポリオーン(オイフォリオン)

 これは少々こじつけ。エウポリオーンは第二部でのファウストとヘレナの息子で、向上心(物理)が強く、それが原因で墜落死する。その向上心、野心の強さはファウストの欲望の鏡のような役割をしている。また、ここまで参考にしてきた考察や文庫本巻末の解説にはホムンクルス≓エウポリオーン≓ファウストとマルガレーテの子などがよく書かれていた。

 では、彼のどこがマルクスと関わりがあるのか。それは墜落死後に冥界(暗闇のなか、地面の下)から母・ヘレナを呼ぶ声だ。実際にドラマ版ではマルクス自ら誰かを呼ぶことはないが、死したマルクスはワーグナーに呼び出されたとき、暗闇、深淵にいると言っている。そして、マルクスは本当の最期にワーグナーと共に墜落するのだ。原作のヘレナは息子の求めに応じて、地上を後にし、息子の元へ向かう。先に地上を後にした愛する人を追うのだ。

 マルクスの研究熱心さもこのエウポリオーンからきているのだろうか。強引ではあるが、原作履修直後に聞いたドラマ版でのマルクスとワーグナーの最期はどうしてもこの親子を連想せずにはいられない。

ワーグナー

・ワーグナー

 お名前そのままである。原作と同じくファウストを師とし、ホムンクルスを製造した。また、ホムンクルスの箇所で述べたようにドラマ版では強く描かれている弱気なところは原作でもそう取れるようなところがある。ドラマ版で親しみを込めてファウストを呼び止めるところに私は感動した。

 台本【成功者の苦悩】で散々書いたが、やはりワーグナーとファウストの関係は似たもの師弟であり、お互いが孤独を埋める存在にはなり得ない。
しかし、原作でもドラマ版でも研究室だけでなく、街でふたりの会話があるのだ。それだけで人間の体温を感じることができ、上手く言葉にできないが、私はこのシーンが好きだ。

 ここの他にタイトルをつけて書ける箇所が思いつかないため、ここで書いてしまうが、ドラマ版ワーグナーの自信のなさからくる冴えない姿と激しい感情を露わにする姿の二面性は魅惑のDouble faceカミュさんにぴったりの設定である。

・ヴァレンティン

 マルガレーテの兄。兵士のため普段は家にいない。かわいい妹が孕まされ怒り心頭で暗い夜の街を歩いていると、向こうから二人組がやってくる。それはまさにメフィストとファウストで、メフィストはヴァレンティンを煽るように歌い、ヴァレンティンは剣を抜く。メフィストが剣を受け、ファウストにヴァレンティンを刺すよう促す。刺されたヴァレンティンは駆けつけたマルガレーテの傍で罵詈雑言を吐き、死んでいく。
 ドラマ版ではマルクスがワーグナー(ここではヴァレンティン)に刺されるが、筋書きは原作のこのシーンだ。

 原作ではマルガレーテが駆けつける前にメフィストに急かされファウストはその場を後にしている。ファウストの逃亡と一部の最後にマルガレーテを失ったファウストの嘆きがドラマ版のここに重なる。

 ドラマ版ワーグナーとマルクスに話を戻そう。ワーグナーはマルクスが死に際でさえファウストに意識を向けたこと、そして自分に残された言葉がこの後の展開へのさらなる原動力になったことだろう。原作で言及はないが、キリスト教の精神に逆らってでもマルガレーテへの罵詈雑言(愛情の裏返し)をやめなかった兄の最期の姿は、その後、苛責に苦しみ、天に救いを求めたマルガレーテに大きく影響している。ここでは原作とドラマ版で役割が反対になるが、効果は同じである。

余談:このシーン、既視感あるなと思ったら、ウェストサイドストーリーいや、ロミオとジュリエットだ。悲恋になる男女にヒロイン側の兄が出てくるのは鉄板なんですね。ゲーテさん、夏夢の他にもシェイクスピア持ってきてるじゃん。

・ヘレナ

 これは原作のファウストとの関わりからではなく、先のマルクス≓エウポリオーンと対になる形である。台本【ワーグナーの走馬灯】でマルクスと同じ場所に行くワーグナーは冥界で息子と同じ時を過ごすことにしたヘレナの姿と重なる。

・etc.

・マルテ
 マルガレーテの隣家に住む女性。旦那は行方不明。旦那の行方(訃報)を口実にしてメフィストが近づき、マルテの家を訪れていたマルガレーテとファウストを接触させる。世話好きなのか、ファウストとマルガレーテの仲を取り持つ。
 ドラマ版ワーグナーとは似ても似つかない性格であるが、マルガレーテの説明で述べたように、一応、ファウストとマルクスの対面の際の緩衝材となっている。また、ファウストがマルクスの存在を知ったのはワーグナーの口が元になっているため、原作でマルガレーテにファウストとの関係を押し進めたマルテの役割を担っていると言えなくもない。

・丘の上の老夫妻
 海を埋め立て領地を経て、何不自由なく暮らす権力者になった晩年のファウストが欲しがったのは、丘の上に立つ老夫婦の家、その場所だった。何もかもを手に入れたのに、権力にも金にも揺るがない穏やかな安息のあるあの家だけが邪魔だった。
 ドラマ版ワーグナーの研究室は海の近い、小高い丘の上にある。そして、ドラマ版ファウストはワーグナーに嫉妬し、ワーグナーからすべてを奪うのだ。

 ちなみに海の埋め立ては、二部の後半あたりのどこかでファウストがあのでかくて、波が立ってて、すべての命の始まりの海に勝ちてえ!!!!埋め立てたら勝ちっしょ!というのを実行したのである。街の皆から尊敬され、賢明なファウスト先生はどこに行った……。


 ドラマ版ワーグナーはファウストの嫉妬の元からファウストへの報復へ走ることでファウストの人生を引っかき回す役割をしている。仕掛け人はメフィストであるが、実際に動くのはワーグナーだ。

 物語の始まりにファウストに試練を与える神ュはその試練のために同じ声帯を持つワーグナーにこの宿命を与えたと考えても良いのだろうか。

 演者のカミュさんは出典を忘れてしまったが、QUARTET NIGHTのジョーカー、切り札であり、引っかき回す役割と聞いたことが印象深く残っている。

ファウスト ラストカンタータの終幕

 ドラマ版と原作の違いで最も大きいところは終幕にある。何もかも失い、自分の犯した罪に気づき、生きるということの意味を見いだしたファウストは、まるでヒーローのように見える。最期に盲い、約束した言葉も忘れてしまった原作のファウストとは真逆とも言える。

 ここで注目したいのは台本【悪夢】の回想シーン。ファウストの体調を心配したマルクスがファウストを寝かしつける。
 この「眠り」は原作の二部冒頭にも登場する。第一部でマルガレーテを失ったファウストは二部の「眠り」によって、その傷を癒やし、生きることの意義を語るのだ(その表現は美しく、非常に清々しい場面だが、おまえ被害者面してんじゃねえ)。
 ドラマ版では台本タイトルの「悪夢」また回想シーンで「眠り」を表現し、それを経てファウストは罪と向き合うことを決める。

 ドラマ版のファウストの最期はもちろん「時よ止まれ、すべては美しい」だ。しかし、ファウストは自身の人生をしっかりと見つめ、喜々として墓穴を掘るようなメフィストの尋問に対して自身の答えを述べる。
 そして、原作の晩年のファウストが恐れた海に沈み、どこまでも天へ昇っていく。

 普段、物語に触れない人にとって、原作のはっきりとしてわかりやすく言語化された答えのない結末と救済は受け入れがたい印象がある。
 古典作品の一般化には、わかりやすい結末とヒーロー性やハッピーエンド、またはバッドエンドでも受け入れやすい教訓、メッセージが必要だと考える。
 特に今回のドラマ版では明るいイメージを売りとしているアイドルが演じる作品であるから、展開をかなり踏み込んだとしても、すっきりとした幕引きがなければ、アイドル本人ではないとわかっていても、他媒体で演者を見かけた時に作品の後味の悪さを思い出してしまったり、どうしてもイメージに影響が出てしまう。
 そのため、今作でのファウストのヒーロー化はより多くの人に作品を届けるための必須事項であったのだろう。

 数多のメッセージが込められた原作から、黒崎蘭丸が演じるファウスト、寿嶺二が演じるメフィスト、カミュが演じるワーグナー、美風藍が演じるマルクスだから納得できる答えを明示することは、それこそ、アイドルが名作に挑戦することの意義だと思う。
 先程、ファウストのヒーロー化は必須事項と述べたが、それは脚本の
ノルマとしての安易なものではなく、黒崎蘭丸ファウストの必然であることは、彼を知っている人ならばよくわかるだろう。

 原作ファウストの最期、ファウストは老い、肉体の状態は第一部の始まりと同じになる。しかし、彼は領地の繁栄は望んでも、若返りは望まない。学者として生きた人生から、第二の全く違う人生を歩んだ彼はいつまでも欲望を持ち続けていたが、きっとその裏で満足を感じているようにも思える。
 「とまれ、おまえはじつに美しいから」と言う彼の最後の長セリフで、彼が願うことは、個人の野心から来るものとは思えない人類の普遍的な幸せである。心からそれを幸せだと考えるから、彼は約束の言葉を発したのだ。ドラマ版ファウストよりも惨めに見える最後ではあるが、彼もほとんど自ら望み、天へと昇っていると捉えても良いのだろう。
 真逆とは述べたが、それはあくまで第三者が見た彼らが死へ向かう姿への感想であって、こうして比較すると、本質はどちらのファウストも変わらないように思える。


余談 展示写真注意!!!!


ワンクッション ホットドッグ


特に印象に残った展示だけ。


・雲が下へ流れていって、日の光の方へずっと上っていくファウスト先生と
静かな3人分の花束に心揺すぶられた。

ファウスト先生

        
・シルエットがさあ、綺麗すぎるのよ。

ファウスト先生 お衣装


・写真じゃ伝わらない迫力があった。
天才マント。

悪魔 メフィストフェレス

        
・このnoteではうまく組み込めなくて申し訳ない。
メフィストフェレス、良いお役でした。

悪魔の影 大体、あなたのせい

・ゾッとした。

映像 「地獄へ落としてやる!」

          
・ここの強すぎる訴えかけと
「罪人へとなり果ててもか」がやばい。

映像 「禁忌さえも犯そう!!」
一瞬にして禁忌がかき消される

  
・ここがやばい。
フラッシュ「神」

映像 「強い信念が」