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【献本御礼】 自分の<ことば>をつくる

大変光栄なことに細川英雄先生にご著書 ”自分の <ことば> をつくる” を献本頂きました。

 学生さんの授業等で扱っている問題や課題についての考えを問いた時「あ、自分も同じです。」という ”ツレない” 言葉が返ってくることは思いの外多い気がします。

 この背景に何があるのでしょう?
「自由に話していいよ」「何でも話して」といいつつ、一度発言すると注意されたり言い直されたり、評価されたり、無視されたりと”裏切られた悲しい思い出”があるからではないでしょうか。

 そういった経験を繰り返すと、自分の意見なんて・・・となって、傷つくことを恐れ(思っていなくても)無難そうなことを自分の意見・考えとしていったり、右にならえな発言になってしまうのは無理のないことでしょう。

 一方で論理的にも言語(国語)的にも非のうちようがない言葉であっても誰の行動を変えることもなかったり、逆に一見拙い、幼いようにみえる言葉が、人の心を打つ例は決して稀なことではない気がします。

 本書では、

主張には「テーマ」自体が「自分でなければ表現出来ないもの」が前提であり、オリジナリティ(固有性)がなければ、相手の中には入っていかない

ということが明言されています(第1章)。

それではどうすればオリジナリティはどうすれば持つことが出来るのか?

それは事象を観測した際に生じる「なぜ」から始まり、「〜だから」を経て「***と考える」という過程から ”自然と滲み出てくる”  ものである、とはっきりと言語化されていることが自分には僥倖でした。

 他者への影響の多寡だけでなく、自分のことを自分のことば で自由自在に話せるようになれれば・・・孤独のグルメの井之頭五郎のように豊かな毎日が送れる気がします笑。

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またその言葉で共感してくれた馬が合う人達とお互いの考えを交換し、互いに受け止めるコミュニケーションはきっと愉しいものになるでしょう。

 p204のコラムでは”「伝え合い、分かり合う」ための表現の活動は「わたし」の内側からしか開かない、つまり「わたし」自身が開こうとしない限り決して開かない扉ということだ”と述べてあります。

口を開けて待っていれば与えられるものではない、というのは一見厳しい言葉のようにも見受けられますが、その先にある自己表現の充実感の獲得を確信しての深い愛情が隠れていそうです。



雑談

帯に使用されていたこの絵、一気に気に入ってしまったのですが

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調べてみると、この絵の中央部分の切り抜きだったのですね!


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