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関ジャニ∞が私にくれたもの

振り返ると私は、この5年間、関ジャニ∞についてブログを書くことを何度も試みたけど、誰かを嫌な気持ちにさせてしまうのではないか、自分の気持ちをうまくまとめることもできなくて諦めてしまった。

でも、もうすぐ名前が変わるという。大切な、歴史も思い出も記録もいろんな思いが詰まったこの名前をおしまいにするらしい。「らしい」といったのは私がもうeighterといえるほどの立場ではないからだ。そんな立場でなにかを語るのはおこがましいし、申し訳無さもあるけれど、どうしても、今、言葉にしておきたい気持ちがあるからやっぱり残しておくことにした。

正直、思い出もその時感じた感情もたくさんありすぎて書き切るのは難しい。だから、無限にあるその思い出のなかの一つの柱にフォーカスして書くことにした。

私と関ジャニ∞が出会ったのは、ガチガチの校則にしばられ、スカートの丈を5センチあげただけで反省文送りにされるという圧倒的な不自由さの中にいた頃だった。親に隠れて彼らの深夜番組を限りなくボリュームを小さくしながら観たことは昨日のことのように思い出す。今では信じられないことだがメンバーが街なかでナンパしたり、移動車のなかで素人女と二人きりになって心拍数を図られたり、スパイダーマンの格好で車に引き摺られたり、100人の素人とコンビニの食べ物を全部食いつくせるかチャレンジしたり、とてもアイドルとは思えない企画をやらされていた。でもそれを果敢にやっている関ジャニ∞が私は大好きで、お気に入りだった。

当時、周りのみんなにも当たり前のように今でいう“推し”がなにかしらいて、ロックバンド、声優、ジャニーズ。そのなかで関ジャニ∞を選んだのは最初は本当に私しかいなかったと思う。やっぱりどう考えてもかっこよくはない、その名前。その名前を掲げたひとたちがどんな人たちよりもカッコよくて、面白くて、私だけが知っているように思えてちょっとだけ誇りみたいに感じてた。

少し時が過ぎた頃、奇跡が起きた。親友がごくせんや少クラを観て、亀梨に落ち、そのうちに錦戸担となった。私は内担だったので、1番仲良しの友達が、自分の担当のシンメにハマるなんて夢にも思わず、本当に嬉しかったのを覚えている。1人で応援していたものが2人での応援になった。NEWSや関ジャニ∞とイニシャルをかけあわせたおそろいのメアドにしたり、2人で内くんと亮ちゃんが出演することになった『がんばっていきまっしょい』というドラマを指折り数えて楽しみにしたり、錦戸が鈴木杏をおんぶしているテレビジョンの小さい写真を観ただけで大鬱になったりしていた。学校でこっそり、すばるの出ていた『プラトニックセックス』のビデオを借りてきて、夏休みの教室で隠れて観たりした。(とても不良)。そういえば、はじめてのジャニーズ現場は、NEWSとして2人が出た春高バレーで、初めて見る内くんと亮ちゃんは信じられないくらいキラキラしていたっけ。

内くんは不祥事で脱退することになり、その後、私は担当不在の時間を長く過ごすことになった。親友はなぜか番組のキャンプ企画みたいなので玉ねぎを転がしているマルちゃんを観て、なぜか丸山に降りた。意味がまったくわからない、私はその映像をまったく覚えていないから、本当なのかも未だに疑っている。とはいえ、それはそうと、最愛の担当がいないのは、とても寂しかったけど、親友が一緒にエイトを応援してくれたから私はeighterでいられたんだと思う。年を経るにつれ、まわりにもeighterも増えて、いろんなことライブにも行ったし、受験を挟んだり、大学生活が充実していたり、一緒にライブに行かないときもあったけど、社会人に突入してから亮ちゃんが脱退するまでは毎年欠かさず一緒にライブに通い続けた。カラオケで鑑賞会もたくさんした。パセラのハニトーは一生分食べた。体感人生で撮ったプリクラが1000枚ならそのうちの700枚はエイトのネタだと思う。ちょうどすきになって10年後くらいに、大阪のライブがあたって初めてふたりで大阪遠征に行った。「10年後の今日の日もだね」と笑い合って大阪松竹座の前で記念写真を撮った。

2018年には6人になった関ジャニ∞の初海外現場だった台湾にも行った。どうしても銀テープがほしくてグーグル翻訳で「銀テープください」って調べて、ノートの切れ端に書いて掲げたら台湾人の女の子が「それだと、『落下物よこせ』になってるよ!」って爆笑してちゃんと「銀テープください」って書き直してくれた。そうしたら、優しい人が分けてくれた。初めてマルが「サメやって」のうちわに反応してくれた時、一緒に膝から崩れ落ちた。本当にサメのモノマネしてくれたし、あのサメの動きは今でも鮮明に思い出せる。

そんな、今思うと本当にくだらなくて、本当にささいだけど、そのすべてが愛しい思い出が関ジャニ∞が私にくれたものなのだと思う。それは青春のすべてだ。最後にふたりでいったのは、6人での最後の『GR8EST』。ライブ後、どこも空いてなくて2人で、松屋で並んで牛めしを食べながらヤスがステージの上で生きてくれていることが本当にうれしいよね、って話した。それはたぶん、私たちが10代から彼らのことを見つめていたからこそ、ふと出た言葉だった。

数年前、彼女の結婚式のスピーチを終え、安堵から爆食していたら中座の時間がきた。こういうのはだいたい、祖母か兄弟だと、なにも考えずに目の前の肉に集中していたところ、「この音楽とともに中座していただきましょう」と流れたのは何度も何度も何度も聴いてきた「友情、真実、夢、希望のイントロ。「無限大」だった。親友は中座のエスコートに私を選んでくれた。あの日ほど「出会えたことがうれしくて、なんだか涙があふれてく、心に元気、無限大、大切な仲間」の歌詞がしみたことはなかった。

いくつもの季節を超えて、いくつもの感情を知って。受験や就職や、失恋や本当に大人になっていくなかで、私はいつも関ジャニ∞の音楽に支えられていた。人生のBGMだった。他にもたくさんかけがえのない出会いをくれたし、今でもよく遊ぶ子はみんな元々eighterだった子だ。今は違うグループを応援してるけど、エイトを通った子には否が応でも、親近感が湧く。そして、こうして文章を書くことも関ジャニ∞のことを語りたい、と思ったことがきっかけだったように思える。

関ジャニ∞は、なんてことのない自分の人生を少しだけ好きにさせてくれる存在だと思う。関ジャニ∞の音楽を聴くと、とりとめもない、平凡な人生に少しだけドラマチックにしてくれて、自分が主役だと思える瞬間をくれる。声を枯らし命をかけて伝えてくれたメッセージは、それだけの力があるんだよ。

文句を言ったことも、内くん、すばるや亮ちゃんのことで10リットルの涙を流したこともあったけど、関ジャニ∞と過ごした思い出は全部笑いに満ちていて、きっとこの先も私という人間の中で生き続ける。eighterという立場でないと思うのにはたくさん理由があってそれを書き連ねるのは今は違くて。ただ、ただ、今はもうすぐ、関ジャニ∞が終わってしまうから、関ジャニ∞を守り続けてくれたこと、私の人生をこんなにも楽しく明るく、彩ってくれたこと。「ありがとうだけじゃ 足りない、ほんと感謝してる」っていいたかったの。

来週からは新しいページ、なんて簡単に一言では片付けられない。だけど、出会えて本当によかった。それだけ、どうしても。8人でも、7人でも、6人でも、5人でも、その歴史のすべてを肯定するよ。新しい名前になってもきっと、これからもその選択を正解にできる人たちだって信じてます。

だってあなたたちはずっと、最高で、最強なのだから。

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