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やさしさはまだ遠く

ネイルが剥がれた。右手の人差し指の爪のネイルが。
衝撃で「うおっ?!」と声は出たけど痛くなかった。ネイルが剥がれた爪を見ると、表面は白くガサガサと荒れていて痛々しいけど、やっぱり全然痛くない。

もうすぐ住んで1年になる賃貸の一軒家は、築25年の3DK。ダイニングキッチンはフローリングだけど1階のリビングと2階の2室は和室だった。
畳も張り変わっているし水回りは新しいものにリフォームしてくれているのでそんなに古くはないけれど、押し入れの戸は驚くほど重かった。

「知らない間に、意外と指先って使ってて、爪に負担かけてるもんやからなぁ。気をつけてね」

相変わらずおしゃれでスタイルが良くて、いつもネイルをしてもらうたびに綺麗なひとだなぁ、と誇らしくなる中学時代の友達。「爪先のネイルが浮きやすい」と話すと、そうアドバイスされたことを思い出した。本当だ。勢いでネイルが丸ごとはがれるぐらい、押し入れを開けるのに爪だけの力に頼っていたみたい。

硬いジェルネイルで見えなくなっていた自分の爪は、ネイルがはがれた後は痛々しく荒れて、誰かに触れたら傷つけてしまうぐらいガサガサしていた。何度もネイルをした爪はペラペラに薄くなってしまっていて、少し重いものを持ったりペットボトルを開けるだけで、爪先が欠けた。ボロボロになった自分の爪を、まじまじと見る。

もうすぐ、沖縄旅行がある。その次の週には夏祭りがあった。
それに仕事でカメラを持つ右手には、綺麗な爪でいたい。
はやくネイル変えにいかないと、出かける準備をしながら考える。

私の周りの素敵な女性たちは、大体ジェルのネイルをしていて、綺麗なつやつやの髪の毛で、季節ごとにかわいいパンプスを履いている。そうした女性を「綺麗」「かわいい」とほめてくれる男性がいる。
異性から認められるのがすべてでもないけれど、自分の自信のためにお金と時間を使い、執着してしまっていることがあるんじゃないかと不安になる。

完璧でいたくなる。それは自分に自信がないから。
自分の弱さは必ず人と本気で向き合うと、現れてくる。自分の気持ちをわかってほしい、自分の弱さを受け止めてほしいと、相手より自分のことばかりになる。裸足で人と向き合うことなんて、もう大人になったからしたくなかった。転ぶときに、痛いから。

外見で取り繕えない中身の部分に、きちんと弱さを見つけているから、外見を完璧にしなければならないと思ってしまっている、気がする。それだけではないのだけれど。

「ネイル変えたん?」

同い年の恋人は、小さな変化にも気づくマメなひと。
それに、感情が表にでない。悲しくてもうれしくても同じような顔をしている。きつい言葉は使わないし、いつでもやさしくふたりのことを考えてくれる。それでも我は強くて、自分が正しいと思ったことを曲げるのが苦手で、曲げないことが正しさの証明だと思っている頑固な部分もある。

彼は会った帰り道に、駅の改札まで送ってくれる。ホームへの階段を上るとき、振り返るとまだ見届けてくれていて、軽く手を振りあう。

付き合った当初「今まで彼女と喧嘩したことない」と言っていた彼と、喧嘩することが増えてきた。
今まで経験したことがないと言っていた、怒ったり泣いたりしているところを見る。そんな顔を見ると、彼は裸足で私に歩み寄ろうとしてくれているのかもしれないと感じる。感じるのに、なぜか素直になれずに私の弱さを受け入れて欲しくなる自分もいる。

でも、私のことを愛おしいと思わないと、私との未来を想えない。
私のことを大切だと思わないと、私のことを案じれない。
それだけ他人に対して感情を動かせるということは、だれにでもできるわけではないと知ってきた。
私がしたことで、うれしくなったり不安になったりする他人がいる。それが、今の私には、とても幸福なことだと思った。

大人になると、頭がどんどん良くなって、心を追い抜いていく。自分の弱い部分が、説明できるようになってしまうのを年々感じるのだ。

私は今、なぜ悲しかったのかを解説できるようになった、そんな一見大人に見える自分が、その悲しみや苦しみは特別なものではないと教えてくる。誰もが通るかもしれない道。10代の頃のように悲観的になりすぎることもない。私がすごく不幸なのではなくて、私の弱さが、私を苦しめていることをもう何度も気づいている。

だからといって、悲しみに蓋をする理由にはならない。
知らない間に、心を使いすぎていたみたい。

いつか私のこの弱さを、削り出しの、お世辞にも完璧とは言えない自分の爪のような心を、それでもいいと思ってくれる人が現れるのだろうか。ネイルの剥げた爪を整えながら、考える。

彼と私の最寄り駅は、電車で12分。
帰り道にひとりで見る電車からの景色は、都会のビルから、すこし田舎の住宅街へと変わっていく。12分の旅ではあまりイヤフォンをつけない。すぐに彼からの「気をつけて帰ってね」というメッセージの通知がくる。

携帯の履歴から、ネイリストの友達へ連絡をする。『次のネイルは、ネイルケアだけにする』。
次の日に雑貨屋によって、ひとつ500円のマニキュアを買った。くすんだローズ色のネイル。もう色選びに失敗したって、3週間耐えることなんてない。もし違う色に変えたかったら、私の手で変えてあげればいいようになった。

硬くコーティングされた、流行りのデザインのネイルじゃない。いつ欠けてもおかしくはない、私の1枚の爪。
それでもローズ色に塗った自分の爪は愛おしくて、今ならどんな私にでもなれる気がした。

作品づくりに使用させていただきます。毎年1作品は制作していきますので、よろしければあたたかく見守ってくださるとうれしいです。作品のオンライン販売もしております。