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わがままって最高だ

「自分がやられて嫌なことは、相手にもしてはいけません」。

25年間、大切にしてきた、この言葉。

でも、わたしが嫌だと感じることが、もしかしたらあなたにとっては大したことないことかもしれない。

わたしにとって取るに足らないことが、あなたにとっては一大事かもしれない。

知れば知るほど、“あなた”のことが分からなくなる。

2016年は、「分かり合えないあなた」の姿をやっと完全に捉えることができた1年だった。

そして、自分の暴走した妄想を勝手に現実と重ねがちなわたしにとっては、「分かり合えないあなた」の明確な発見は、ある意味「思い通りにならない現実」をパイ投げみたいに顔面にぶつけられたようだったけれど、一方でとても気持ちが楽になった。

分かり合えなくて大丈夫、という余地を、もらえた気がしたから。もっと言えば、だからこそ分かり合えるのは奇跡だという幸福を、見つけられたから。

他人の顔色を伺うことは、悪いことではない。

相手の立場に立ってものを考えようとする姿勢を取ることは、いろいろな局面で役に立つし、必要なことだ。

ただし、相手の思いを鑑みることと、相手の思い通りになる(服従する)ことは違う。

分かっていたつもりでも、そのあたりを取り違えがちだったわたしは、いつのまにか「あなたのために」と思いながら相手に服従していた。

この「相手を想う」行為の取り違えは、いつから始まっていたのだろう。

わたしの思いはいつだって横に置かれて後回しにされ、それでもいい、相手を立てることがわたしの役割だと思っていた。

自分の気持ちを伝えること、思いを声に出すことは、わがままだ、という勘違いは、実はずいぶん昔−−−10年以上昔−−−から、始まっていた気がする。

思いを率直に伝えられる人がうらやましかった。

わたしだって本当はこうしたい、って思っても、それを言えないで声の大きい子を立てるような子どもだった。

だからわたしは「誰にでもやさしい子」だったと思う。それが、わたしなりの自分の存在価値の見つけ方だった。

固定のコミニュティで生きていくには、そうやって陣取り合戦みたいに自分のキャラ設定を見つけられれば、しばらくは特に何も考えずに生きていけそうだった。

けれど、それを長く続けるのは無理だった。

昔の、ぶり返しのようなものが、なぜか10年経った頃から起こりはじめて、もはや周囲への気遣いは10歳の私のほうがずっとできていたんじゃないかと思うくらいの変容っぷりだ。

遅れてきた反抗期のように、素直になれなかった子どもの頃の反動が、今大きく心に揺さぶりをかけてくる。

素直になることに対して、あえて、わがまま、という言葉を使いたい。

意図的に誰かを傷つけるのは論外だけれど、気持ちを素直に伝えるということは、事を穏便に済ませたいシーンにおいて、時に「わがまま言うんじゃないよ」とけむたがられる。
そして、いつの間にか誰かを傷つけてしまうこともある。

結果的に汲まれなかったとしても、声に出して伝えなければ伝わらない。だったら、わがままだと言われようともまずは思いを言わねばならぬ、と気づいた。

それに気づいて、実行できるようになるまで、十数年かかった。

傍若無人はけったいだけど、素直になれずにぺったんこになったわたしの心は、わがままでいいのだ、とダムが決壊したように怒涛のごとく溢れ出した。

わがまま、かもしれない。
それで嫌われる、かもしれない。
嫌われるのは、やっぱり怖い。

でも、言わずに気持ちを押し殺して何も始まらないのは、もっと嫌。誰にもいない気持ちばかりかさばって、一人でかかえきれなくて、その重みにつぶされるのは、もっともっと嫌。

「自分がやられて嫌なことは、相手にもしてはいけません。

でももしかしたら、相手は嫌じゃないかもしれない。逆にわたしにとって何ちゃないことが、相手はすごく嫌な気持ちがするかもしれない。

だからまずは、わたしのわがままを、あなたに差し出そう。嫌なことを嫌と言う、その意思を、あなたに伝えよう。同時にあなたのわがままも照らして、相入れたならラッキーね。

それでも相入れられないなら、理解し合えないなら、それでもいい。わたしの気持ちをあなたに理解してもらえないことがわかっただけでも、ラッキーね」。

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