旅は何かを得るものか、それともすべてを捨てるものか
一年くらい前の取材で、ご夫婦で世界を放浪していた方にお会いした。
現在イスラエルの靴を仕入れて東京の下町で販売している会社の代表の方で、そのお話のなかでかつて夫婦で旅をしていたエピソードに触れたとき
「旅は、すべてを捨てるために行くんです」と、その方はおっしゃった。
遠くへ行けば、「ここではないどこかへ」行けば、なんとなく、“わたし”が新しくなる気がしていた、20代前半。
でも、どこへ行っても過去を引きずる“わたし”は着いてくる。
いきなり何かができるようになるなんて、価値観がガラリと変えられてしまうなんて、そんなマグレは、ほとんどない。
それほどまで強く揺さぶられてばかりだと、旅を続けることはできないな、とも思う。
「どこへ行っても変わらないわたし」に、うんざりすることも多いけど、感動に時差があるのだと自覚してからは、何を見ても何を食べても何をしても「ふーん」と、それっきり。
感動をこじつけるのは、もうやめた。
今まで名前も知らなかった人々の、未知の生活が、わたしの“ふつう”を染めてゆくのを、遠くからじっと見ているだけ。
今時期に起きたことが一年後に突然フラッシュバックして、急転回するジェットコースターみたいに修羅の道を選ぶことも、ざらにある。
旅に出るのは、捨てるものなんてないからだ。
その代わり、守るものもない。何かを得なければという、枯渇感もない。
ただ、行きたい、遠くへ行きたい、その土地へ行きたい、熱っぽい空気に触れたい、カラカラの空の下で左右もわからず途方に暮れたい、見知らぬ誰かの見知らぬ世界とわたしの世界がどこかで交れば、いい。
失うものは、何もない。
だから、どこへでも行ける。
なんでもできる。
だからって、茨の道へ頭から突っ込んでいくのは、ちょっと頭がイッちゃってるのだとしても
そして
失うものが何もないということは、少し、寂しいことだとしても
なんでもできるうちにどこへでも行こう、なんでもやろうと
本格アラサー世代突入前(26歳前)に思う。
いつか、守らなければならないものとか、失いたくないものとかができたとき、わたしは旅に出なくなるのかな。
遠くへ行きたいと、あの景色を見たいと、思わなくなるのかな?
それとも、何があろうと環境が変わろうと、遅れて来た感動に突き動かされて、突拍子のない方へ思いっきりハンドルを切って切って切り続けて場当たり的に走り抜けて老いてゆくのだろうか。
よく、品と落ち着きを備えた大人たちから「若い頃に散々遊び尽くして、遊び飽きたから、今は違うことをしたいのよ」という話を聞く。
いい加減、26歳ってえらい大人じゃないの、と自分の覚束なさに情けなくなるけれど
「ここではないどこかへ」という焦燥感は、たくさんあったはずの大事なものと、まだまだ怖くて向き合えていなかったからなのかもしれない。
今度は、おそるおそるでも、目を離さないでいられるかな。
失うものが何もない、という状態を、早く失くしてしまいたいのかな。
今は、遠くへ行くよりも、目の前で起きていること、半径3メートル以内の幸せを、手探りで積み上げて行くほうがおもしろい。
今まで散々、「ここ」に物足りなさばかり感じて「ここではないどこかへ」と思っていたけれど、「ここ」にも「遠くのどこか」と同じくらい、知らないことが、たくさんあるから。
覚束なさは、10年前となんも変わってないけれど。
次、旅に出たくなるときがきたら、何かを得るためでも捨てるためでもなく、そして失うものが何もないから、でもなく
大事なものを守るために、旅に出たいと思えたら、いいな。
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