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“テンプレ化された悲劇”は もうやめた

なにか大きなきっかけがあったわけではない。友人たちの第一次結婚ラッシュ? 仕事で働くおかあさんたちに会ったから?

大きな決断とか、大きな自分の価値観が変化するとき、わたしの場合は細かな伏線のようなものが、キラッ、キラッと見える。その出来事や言葉に出会ったときは、正直なぜそれが、きらめいて見えるのかは分からないのだけれど、「むむっ、これは何やらとんでもないメッセージをはらんでいるぞ」という予感がする。そしてその予感に根拠も脈絡もない。けれど確実に新しい世界への布石であることは分かる。

このキラめきは、トントン拍子で見つかることもあれば、長いこと潜伏期間のように見つからないこともある。

ここ最近は、小さなキラめきが、ヘンゼルとグレーテルのパン(ある絵本ではパンではなく月に照らされる白い石だった)みたいに、ぽつぽつと落ちていて、わたしはそれを拾い集める日々だった。深くて暗い森の中、いつ抜けられるともわからない道なき道を歩きながら、誰かが落とした言葉や生き様のなかにひそむキラめきを、たどって拾って、いまひとつのゴールのような、休憩所のようなところに到着した。

キラめきは心をフラットにしていないとつかめない。邪推や警戒心は、見つけられたはずのキラめきを遠ざけ、見えなくする。

出会ったもの、こと、人の声に耳を傾けると、自分の中にはなかったものを見つけられる。それはある種、異物だから、時に受け取るのに痛みを伴う、こともある。たとえば自分で見て見ぬ振りしてきた事実を指摘されたとき、思わず目を背けたいけど、受け入れざるをえないような、そういう痛み。

その痛みにビビってるとだいたい頭がカッチカチになって、きらめきを取りこぼす。大いなる変化へのチャンスを逃す。

つまり素直に人の話を聞いてりゃいくらでも世界は広がる、ということ。

「えー、でもそれって理屈に合わなくない?」とか「わたしにはできない、あなたが特別なだけじゃない」とか、卑屈になれば世界はそこで閉じる。

理屈?特別? 知るかよ、と言いたい。

たしかに、わたしが拾い集めたキラめきを提供してくれたひとたちは、本当に目がくらむほど努力していたり、頭が超良かったり、とにかく肝が据わっていたりする。

わたしが彼らのようになれるかどうか、と考えがちだけれど、それは無理。別個の人間なのだから無理に決まっておる。

でも彼らのキラめきを、自分ならどうする? どう活かす? と、わたしのエンジンに変換することはできる。いくらでも盗めるところは盗んでいいし、真似られることは真似ていい。彼らはそんなことは気にしない。

うっかりすると、わたしたちは必ず誰かの生き様をテンプレ化して生きねばならぬと思いこみがちになる。

生き様をテンプレ化すると、これまたテンプレ化された嫉妬と羨望が生まれる。この負のスパイラルを“テンプレ化された悲劇”と呼びたい。

ある意味、悲劇とは、喜劇だ、お笑いだ。まったくもってナンセンス!だ。

テンプレ化された悲劇は、共感しあえるから、不安を和らげることができる。同じ悲劇に踊らされて頭を抱えていれば「ああ、あなたも悩んでいるのね」と同志たちが集まってくる。

しかし、それは一瞬の慰めにはなっても根本的には何も解決しない。この悲劇はテンプレート化されたもの。誰かの幸せ、誰かの成功、誰かの歴史をなぞるためのもの。

でもさ?

誰かと同じようなことをする方が、難しいんじゃないかって、最近は思うようになった。

だって、わたしたちは全員圧倒的他者。みんな違って、みんないい、かは知らないけどとにかくみんな違うんですよ、ほらほら手の大きさ、声、着ている服も瞳の大きさも癖も夢も笑った顔もみんな違うじゃあないですか?

テンプレ化された悲劇は、ときには圧力になってのしかかってくる。「お前もこう在れ、さもなくば落第だ」みたいな。そしてその圧力は大抵、テンプレ悲劇の信者たちによって形成される。

型があるのはわかりやすくていい。でも申し訳ないけどテンプレ化された悲劇の中で傷を舐め合うのはごめんですね。だって、結局どこへも行けない。自由じゃない。なんのために、わたしたちは違った心身を持って生まれてきたのさ? いろいろな正解があっていい。そのなかで、わたしはあえてこうしたい、と思うことはどれくらいあるか? あまたある選択肢のなかで、わたしがそれを選ぶ理由は? 途中までなら、誰かのテンプレに導かれてもいいとは思う。やりたいようにやればいい。最初から最後まで、テンプレにのっとって生きるのも、ひとつの正解かもね。

いずれにせよ、飛び込むときは自分で決めろ。そして、あなたの道を、わたしの道を、誰も邪魔しないでくれ。

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