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20代折り返しの大冒険。編集者兼開拓者、そして表現者への道

「あなたの欲しいものを書いてください」。

小学校一年生の後半に差し掛かった頃、文集か何かにそれを書く時間があった。

わたしは迷わず、「牧場」と書いた。

広がる草原の向こうには低めの山脈が見え、その曲線から視界に入りきらないくらいの空が広がる、そんな場所で暮らしたいという想いから「あ、それって牧場だ」と思って書いた記憶がある。

牧場なんて、7歳のわたしは見たことがあったのか定かではないけれど、その頃から、広くて大きなものに包まれて暮らしたいと、漠然と思っていたのだろうか。

***

大学進学を期に上京して、はや6年。

数字にすると、長いような短いような。

智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山あたたらやまの山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。(高村光太郎「智恵子抄」より 「あどけない話」

上京してからというもの、ビルや家屋の屋根の隙間からこぼれる太陽の光を見上げつつ、幾度となくその詩を頭の中で反芻した。

そして、今、彼女が東京で暮らしていたら、嘆く暇もなくこらえきれずに窒息してしまうだろうか、と考えた。

上京後7年目に突入するとともにわたしがどこで暮らし何をしているかなど予想も期待もしていなかった学歴コンプ娘は、浪人する勇気がなく思い切って上京してからというもの、日々起きることに一喜一憂しては自意識にもてあそばれていた。

小さい空を嘆けば、都会から弾かれたことになってしまう気がして自我をこねくり回して適応した。

そんなちっぽけなわたしにも、この街は時に冷ややかで、時にどんな孤独も喧騒の中で飲み込んでくれ、黙ってそばにいた。

東京。

やっぱりあなたは、華やかで多様で煩わしくて、すこし寂しげなのが、よく似合う。

2017年は、わたしの20代折り返しの記念すべき、1年目。

その1年目に、6年暮らした東京を離れ、北海道の下川町という町へ引っ越すことになった。

ある友人は「お嫁に行くの?!」と問うた。

あはは、仕事で行くのと返すと「あなたらしいね」と微笑んだ。

“わたしらしい”?

北海道へ移住するのと言うと、友人や家族が驚きつつもほとんど必ずと言っていいほど口にしていた「あなたらしい」という言葉。

母に北海道移住計画を伝えたところ、開口一番「運転免許取らなきゃダメじゃん」だった。

友達も仕事仲間も家族も、そうやって突飛なことをしでかすわたしを笑って送り出してくれるようなひとたちだ。

彼・彼女たちと、気軽に会える距離ではなくなるのだけは、やっぱりちょっと──

否、とてもさびしいわ。

***

わたしが3月にイギリスに行ったり、今度は北海道へ行くなどとのたまったりしているのを目の当たりにして、「何をしているの?」と不審がられることも、なくはない(ほぼないけど。ほぼないという環境もちょっと良くないかな、と思ったりもする)。

編集者として仕事をしていますと言っても、あまり納得してもらえない。

おそらく、その不審がる人とわたしで、決定的に違うことは、わたしは仕事とか働くことをお金を稼ぐ行為だ思っていないということだ。

……と、こう書くと語弊があるけれど、お金はもちろん大事で、そりゃ稼ぎたいけれど、でも生きているうち仕事、というか生産行動をしている時間の方が長いだろうしわたしはその人生の方が楽しいんじゃないかと思っているから、だったら思い切り夢中になれることをしたいという前提がある。

「働くのが嫌だ」「仕事が面倒だ」と言って、人生を使いたくない。

楽しく生きていたらお金が稼げるようになった、という方法を考えたい。シンプルに“生きる”ことだけ、切実に考えたい。

ただそれだけ。甘い?

こんなふうに思うのは、ただ生活のためにお金を稼ぐという方法に対する“向いてなさ”を休学時代に思い知ったからだ。

***

休学期間の始め、3ヶ月くらいは、旅の資金稼ぎのために、文字どおり朝から晩まで働いた。

6時半から朝のホテルで配膳のアルバイト、そのあとユニクロで汗をかき、夜はレストランでドリンクとデザートをひたすら作り、日をまたいで帰る毎日。

今となっては、バイト漬けの日々の後半はもうあんまり覚えていなくて、思い出せるのは行くのが嫌すぎて泣きながら自転車をこいでバイト先へ向かっていた、広い街道沿いの舗装されたまっすぐすぎる道くらい。

楽しかったこともあったはずなのにね。
都合が良い脳みそだ。

ただ、仕事の内容より今すぐお金を貯めることを優先して、得意じゃないくせに接客のアルバイトばかりしていたからか、だんだん心身がきしみ始めた。

決まった労働時間と対価を交換する日々の連続。確かに通帳に目標金額は貯まっていったけれど、旅に出るまで、と期限を決めていたからギリギリまっすぐ走れたようなもので。

期限がなければ、本当はすぐにでも逃げ出したかった。

最後は月末のお給料が振り込まれるのを見届けて振り切るようにバイトを辞めた。それからというもの、まっすぐな道を方向転換して横道へ爆速で漕ぎ出した。もう二度と、稼ぐためだけに働くまいと固く心に誓った。アルバイトですら既に体が拒否したので、当時は自分は社会不適合者なのかもしれないと何度も落ち込んだ。「わたし、どこへ行っても使えない労働者なのではないか」と。

「こんなこともできないなんて」と不足だらけの自分に苛立ちながら積み重ねてきたことしか晒せない悔しさも手伝って、なんとか手にしたお金はとても尊くて、でももう二度と同じようなことはするまいと誓った。

お金を理由に何かを諦めることはしたくない。

でも、お金のために労働するのは続けられない。

だったら、難なく続けられることで生きていく方法を探そう。

そう決めたら、だんだん仕事というものが、暮らしから分離せずに常に考えて楽しいもの、悩むのではなく学べるものへ変わっていった。

***

2017年から暮らす北海道の下川町という町は、人口約3,400人。

森に囲まれ、森とともに暮らす町。広さは東京都23区と同じくらいだという。

仕事柄、たくさんの移住者と、彼・彼女を受け入れる地元の方々を見てきた。

「なぜ、そこで暮らすことを選んだのか?」。

その質問を投げかける側だったわたしが、今度はその暮らしを選ぶ側になる。

なぜ?

わたしはそんなに複雑にものを考えるほど、思慮深くない。「今がチャンスだ!」と嗅ぎ分けた瞬間「行けー!」と飛び出す。

何者かになりたくて。

わたしは“わたし”になりたくて。

どんなに模倣を重ねても、形だけ悔しさを克服しても、“わたし”の道は、どこにもない。

“今のわたし”が切り開かない限り、どこにも伸びてはいかないのだ。

北海道に移住することに不安も抵抗もなかったのは、“その土地で暮らす”選択する意思をたくさん見てきたからだ。

自分の中で「これだ」と思った瞬間に飛び込む勇気さえあれば、あとはきっとなんとかなる。

その「これだ」を見逃さない嗅覚は、日々いろんなものに触れていないと磨かれない。

2016年は「これだ」とガツンと頭を殴られたような出来事が、いくつもあった。

当たり前だと思っていたことが当たり前じゃないことに気づいたし、相手への過剰な期待と理想の押し付けが自分の首を縛っていたと分かって、「分かり合えない」前提で人と向き合う方法を覚えた(正確には、今その方法を試している最中)。

決定打は、去年の夏休みに富山県南砺市の利賀村に行った時のこと

車酔いしそうな蛇行する山道の先に、突然開けた山間部。そして点在する日本家屋と茅葺き屋根の劇場が、役者や地元のじいちゃんばあちゃんの家と並んで一つの村ができている。

利賀村にはたった数日間しかいなかったのだけれど、あの日々は、演劇の力と「本当に好き(必要)なら、人は野を超え山を越え何がなんでもやってくる」という事実を物語っていた。

演劇という共通言語があれば、どんなに山深くて不便でも人は集まるし、暮らしの拠点ができる。そして演劇に限らず、障害をやすやすと超えていく共通言語は、世界中にたくさんある。

その最も一般的な例が、宗教なのかもしれないけれど。

***

利賀村で頭をガツンと殴られてからというもの、どこへ行っても“そこで何をするか”で世界はガラリと変えられるという確信を得た。

だから、北海道に行くといっても東京や関東近郊の友人たちとは永遠にお別れだとはまったく思っていないし、むしろいろんな世界が近づいてきてくれるんじゃないかという感覚がある。

たとえば、人間の細胞などのミクロな世界にどんどんズームアップしていくと、いつの間にか宇宙の銀河のそれと似た構図が立ち現れてくるような。

逆に宇宙をズームアウトしてどんどん広域的に見ていくとDNAや細胞の配列に見えてくるような。

そんなふうに広がりを持って世界を見ると、かなり身近な世界のあれこれも見えてくる。その原理が真実だということを直感的に理解した。

だから物理的な距離の遠さが、何かを近づけてくれるはずだと信じている。

見たい、聞きたい、知りたい。

心底そう思っているなら、行動する。

行動していないなら、本当は特に見たくも聞きたくも知りたくもないだと思う。

わたしは、ひとの欲望と好奇心に基づく行動力に対して、絶大な信頼を置いている。

自分自身が好奇心に敏感でありたいと思っているからかもしれない。

***

3年間、まずは下川町に住むわけだけれど、3年前のわたしが北海道に住むことを決意するなんてまったく想像したこともなかった。

3年間。

長い?

長いかもしれないし、短いかもしれない。

確かなのは、3年後、わたしはまだ、28歳だということだ。

二十代折り返しを過ごして、なんとなく波を読めてきた感じの年頃でしょうか。

28歳。

うん、全然いいじゃん。と思う。

なんでもできる。なんでも選べる。

28歳の諸先輩方、いかがでしょうか。

皆様に見えている世界もきっと、暑さに逃れた人を涼ませる木陰を作れるほどに大きく遠くへ枝葉を伸ばし、上へ上へと伸びていやしませんか。

3年後、もしかしたらそのまま町で子どもを産みたいと言うかもしれないし、またバックパッカーになって世界を旅するとか言い出すかもしれない。

未来は誰にも分からない。
ひとの心は変わるから。

わたしの人生はわたしのもの。

わたしの手綱はわたしが握る。

まだ修行が足りないから、時々握っているのに暴れ馬みたいになっちゃうけどね。

「あなたの欲しいものを書いてください」。

同じ質問をされたら、今のわたしは何と答えるだろう?

牧場は手に入らないけれど、牧場くらい広い敷地を散歩できるようになるだろうし、智恵子が嫉妬するくらい広くて大きな空の下で暮らせるようにはなるだろう。

大前提として、わたしは東京が好きだ。キラキラしていて儚くて享楽的で。

誰が何をしていても気にしない。その空気が心地よい時もある。

けれど、まだないもの、まだ見つかっていないもの、知られていないものを「見つけた!」と発掘するのも同じくらい楽しいに違いない。

“知らない”ということは、不安でもある。

そしてミクロとマクロの視点の交差点に立ち、わたしには足りないものがまだいっぱいある。知りたいことも、いっぱいいっぱいある。

北海道に行ったらやりたいことも、いっぱいいっぱいいっぱい、ある。

ただ、それらは編集者、という肩書きの内では、もはや足りない。

編集者兼、マクロとミクロをつなげ切り開く開拓者、そしてそれを周囲へ伝える表現者、とでも仰々しく言ってしまおうか。

大げさだけど、大げさじゃない。

北海道へ行くというのは土地柄ゆえ、つまり、そういうことでもあるんだと思っている。

さて、人生がますます楽しくなってきた。

そんな気分。


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