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論理性は有能。ただ使い方次第では人を傷つける武器にもなり得る。

正論の武器ってあると思う。

最近、論理的思考能力がもてはやされている。

感覚的に生きてきた私にとって、苦手とする論理性。

感情的な人間が進化する中で得た能力だから自然には身につかない。

知性を鍛えて、努力をしてこそ身に着く考え方で、

だからこそ持てはやされているし、純粋に本質に近づく考えなのだとも思う。

ただ、何もかも論理性が使える訳ではない。

論理性で説き伏せている場面をよく見る。

論理性を持って正論を淡々と伝える人がいる。

”否定ではなく、単純にフラットに意見を述べているだけで、それを人格否定と受け取るあなたが幼稚だ”

そんな具合に鋭すぎる正論を突き付けられる。

正論だからこそ逃げ場が無くなるのだ。

ただ、私たちは感情で生きている人間、そんな人間に論理が通っているからといって、あまりにも配慮を無くすのもどうかと思う。

人を説得させる論理性は確かに立派だ。

ただ、論理性というものを

気持ちを汲み取る配慮をしない免罪符に使うのはどうかと思う。

人と人で成り立っている世界で、はじまりは全て感情だ。

論理性を持ちながら、感情を汲んで

相手に一番受け入れてもらえるカタチで伝えることが人間の出来る事だと思う。

正論ばっかりはAIで良い。

当然対個人なのか、対マスなのかによって伝え方は変わるし

伝える相手を特定しない場合は、そこまで配慮をする必要は無いのかもしれない。オブラートに包みすぎると伝わるものも伝わらないと思うからだ。

ただ、対個人に向けて、鋭い切り込みを入れる場合は強い覚悟が必要だ。

そんなストレートな愛も勿論ある。それを愛と受け取れるだけの信頼関係が築けていることが大前提だと思うが。

私は繊細で曖昧な人の感情を肯定しつつ、愛あるコミュニケーションを目指したい。

本当に論理的で知性溢れる人はもっとしなやかに優しく生きているように思う。

SNSがもっと優しい場所になってほしいと思う反面、

強烈なメッセンジャーのお陰て背中を押して頂いているのも事実。

それぞれの強みを生かして、

それぞれの戦い方をしていけば良い。