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雨あがりの夕暮れどき        ~せつない気もち~

それは突然にやってきた。

インナースキャンをしながら考えた、そうだ。しかし、そこに至るには思考されていたと思う。タイミングとしてこの時だったのだろう。彼女の申し出は彼女のペースから行くと当然で、わたしにもその兆候は感じ取れていた。

それにしても突然であった。

この春のわたしの生活の変化も、”これでいいのかしら?”という感じがありながら、自分の自信の無さからくる、誰かの希望を叶える、選択をしている。物理的にいつまで続くだろう…と思案しながらも、”自分の選択”を出来ないでいる。”自分の選択”ではないと判っている、いつまで続けられるか、という限界の近さを感じながらも不快ではない。

そのような生活の中でその予兆は感じていたわたしであった。今年のはじめかな?”あなたに引きづぐ”と彼女は言った。しかし、わたしにはその気がまったく無くて。だいたい開脚もろくにできないのに。かかとつけ正座はおろか、フツウに正座もできないわたしなのに。ありえない。わたしは彼女のナビゲートに付いて行くことしか考えていなかったのである。

また、一緒に始めたお二人は養生について詳しくて、ナビゲーターに匹敵する知識をお持ちであった。その意気投合の様子に、わたしはついていけなくて、彼女との、またお二人との距離を感じていた。お二人と彼女の親和性を羨ましく感じていた。そして彼女とのその一定の距離感はわたしにとって悪くはなかった。養生についての教えを乞う人として探究心が深く、確実に自分のものにして進んでらっしゃる様子に、畏敬を感じてすらいたのだから。

そしてそれは9月までということであった。月に一回なのであと四回。

今月の案何に”話し合ってできるだけ続けていきたい”と綴ったのに。あと四回である。それは突然に告げられたのである。どこか予兆は感じていたが。

世話人としてこの場を保ってきたわたしに相談なく、直感で告げられたのである。その悲しさからなのか?涙が出てくる。わたしは何なのか?淋しさの中には、どこかないがしろにされたような悲しさがにじむ。

しかし、胸の中は空っぽである。残念なお告げではあるが、どこかほっとしている自分もある。これで月に一回の会のお世話から解放される。後のお二人のわたしへの頼り様や気遣いの無さは信頼からくるものなのか?どこかむなしい、空っぽな感じが残っている。この先お二人とどのような関係になっていくのか。

わたしは彼女の何か怒りに触れることをしたのか?確かに去年も今年も就職した時に彼女にいちいち報告などしなかった。月に一回の集まりのために自分の仕事を決めかねることは理不尽だろう。そのことについて失礼をしただろうか?怒りを買うようなことをしただろうか?とも考えてしまう。

いずれにしても、後4回である。わたしの世話人は終わる。そして場所借りのための代表のさちさんにも連絡をしないといけない。彼女にも多大なる感謝である。そして、一旦。まんまの会も閉じよう。その方が新たにスタートできそうだ。

わたしはからだを整えるこの作業にかこ5年間、随分と支えられてきた。感謝である。しかし、みんなの前で告げる前に一言、知らせてほしかった。それはわたしへの怒りか?それとも彼女の驕りか?とにかくしばらくは涙がそこはかとなく湧いてきそうである。



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