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第三弾リノベと養老先生のことば

久しぶりの投稿です。
前回の投稿が6月末だったので、約2か月ちょっと。

現在、家の中のリノベーションの基本的なところが完了し、今度は第三弾として庭を含めたエクステリアと、デコレーション的な内装の部分に着手しようというところです。
Instagramには投稿したのですが、内装のメインとなるファブリック、布物に関しては、県内在住の布物作家・山野辺愛子さんにお願いをしています。
玄関先や各部屋の仕切りとしての暖簾、客室とリビングを緩やかに分けるようなカーテン、椅子の座面…と、「布」が必要となるであろうあらゆる箇所でお願いをしているため、思っていたよりも大きな計画となりそうな予感です。ぜひ楽しみにしていて下さいね。

ゲストハウスはゆるっと、気ままに(ちょっとだけ世の中の流れに遅れないようにしつつ)相変わらず進めています。

全く別の話になりますが、最近わたしがとても嬉しくなった、というか長年のモヤっとが解消されたお話がありましたので、ここに書いておこうと思います。

作業をしながらYouTubeをラジオ的に聴くのが趣味の私なのですが、直近で聴いたのが養老孟子さんのとある講演。たしか広辞苑にまつわるもので、講演タイトルは『壁を超えることば』でした。
養老さんの著書は一冊も読んだことがありませんし、この講演自体も最後まで聴き終わっていないので、完全に現時点での抜粋的な感想になるのですが、その中で先生が「同じ」という概念を説明されていたのがもの凄く響いたのです。

例えとして養老先生は、簡単な数式を用いて説明してくれました。

「a=b」はすなわち「b=a」である

これは私たちが中学一年生くらいで習う、数学の最も基本的な概念(『=』等号、同じこと)です。
でも動物はこの「同じこと」というのが理解できないのだとか。
上の数式だと、aとbが入れ替わって別の場所にある時点で「違うもの」として認識するそうです。

先生が言うには、数学が苦手な子の中にはこの「同じこと」の概念を上手く受け入れられていない場合があるそうです。ここに私はピーンと来ました。自分が全くその通りの子供だったからです。
高校時代の私は、数学平均10点台あるいは0点もめずらしくもないという数学苦手人種。さかのぼれば私の数字苦手キャラは、小学2年生から始まっています。
算数の時間、新しく「ひっ算」というものを覚える時、引かれるべき数字の値が引く数字よりも小さい時(一の位の上の段が3、下が9などの場合)、そのひとつ上の位から10を借りてきて、それで賄ってしまおう!という理屈がが全く理解できず、ひとり教室でぽつんと泣いていたのを覚えています。

当時の私の気持としては、なんで借りるんだ…てか数字を借りるってなんのこっちゃ…意味わからん…イメージできない‥数字が借金すんのか…どうゆう理屈だ…延々。でした。というか今もよく分かってません(笑)。

養老先生はこれを「感覚の問題」と表現していました。「a=bすなわちb=a」ということが、理屈ではなく感覚として受け入れられないということ。
つまり動物と同じく「a=bとb=aは全くの別物」という "感覚" が優位に立つ子は、この現代数学の理論を飲み込めないということなのでしょう。
「生徒の分からないことが分からない」という先生は、この理屈が分かっていない可能性があります。分かってもらえない子供が再び数学に向き合うのは、かなり難しいと言えるでしょう。

話を戻すと、つまり人間は「a=bはすなわちb=a」というように、物事を一般化つまり「同じ」にして考えるという習性があるということになります。
先生曰く、「ことば」はその典型だと。目の前にある現象を誰か他の人と共有するためには、言葉にして伝えなければならない。共有する人が増えれば増えるほど、その言葉は便利なものとして働きます。しかし "言葉ありき"になった生活の中では忘れがちですが、言葉には「ことばになる前」の現象があるのです。そのことに出会った・気づいた時にどうするか、それが「感覚」に任せられた大きな役割となるのでしょう。何でもインターネットで検索してその中に答えを見出そうとする現代人は、特にこの「感覚」を忘れがちだと言えます。

…と、壮大な話になってしまいましたが、この先いよいよ「感覚」で感じ得るものが大切になってくるのでは、と思ったお話でした。
計算しつくされた人工物の中で生きながら得るのはほとんど不可能だということを、先生の言葉とこのコロナで明確になりつつあるのだなと思った次第です。

2020.09.02
✴︎オーナー・美郷✴︎

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