「気まずい」を考える(3)

 「気まずい」という状況に対するリアクションの違いから、意識が「いま、ここ」をふわっと離れていきやすい人と、「いま、ここ」に居つきがちな人がいるのではないかと述べてきた。もちろんそれはかなり大雑把な(悪く言えば乱暴な)区別だし、あらゆるコミュニケーションのズレがそこに起因するとも思っていない。ただそのような体質的な差異がコミュニケーション文化の差異につながっていることを想定しないことには、お互いが何を大切にしたり守っているのか分からずに、傷つけあう(あるいは排除する)ことを免れないような気がするのだ。そのズレはそれぞれの文化に翻訳され「悪意」「失礼」、または「嘘っぽい」「偽善」などを意味することになり、傷つきやわだかまりとして残っていってしまう。

 しかしながらたとえ体質的・文化的な違いがあると理解できたとしても、うまくやっていけるかというと話はそう簡単ではない。(※1)単純な図式にすれば、「ふわっと派」が多数を占めているので、「居つき派」に「ふわっと派」のお話作りを強いているのが現状だ。「こういう場面ではこう振る舞います」ということを教える各種SSTを否定するわけではないけれども、そもそも身体的差異があるのに不自然な振る舞いを強要しなければならないというのもおかしな話だし、またそれが「お話作り」への参加となっているのかどうかも疑問である。一方、支援機関などで「配慮」という形で居つき派の方々の自然な振る舞いが受容され、許容されていたとしても、利害関係の生じるフラットな人間関係の中では一方的な「配慮」を求められないのが現実だろう。

 では、どうしたらいいのだろう?

 わからない。

 でも一つ言えることは、「一方が、他方に合わせる」のではない別の形を模索するしかない、ということである。そして「うまくいかなさ」がそれぞれの身体的差異にその基盤を置いているのだとしたら、新しい共同的な身体を立ち上げるしかないのだと思う。人は各々「体質」なるものを持って生まれてくるという前提が崩れ去る、一見矛盾した議論のように聞こえるかもしれない。でも身体は、体質なるものがあるにしても不変ではない。環境と関わり合いながら変化していっているのだから、新しい共同的な身体を立ち上げるというのもあながち無理な話ではないように思う。ただし変化していくためには、環境として出会っていなければならない。自分が想定している、自分と同じような身体を持つ他者だけではなく、自分の想定を超えた他者を含みこんでいる環境に身を置いていなければ、決して変わっていかない。

 要は、「一緒にいて慣れる」の一言に尽きる。

 なんだそれ!まわりくどい議論しといて、何にも新しくない!

 ですね。私もそう思うが、でもいろんなことが機能的に「分けられて」いく世の中で、「分けない」というのは案外新しいんだぞ。と主張したい。

 もちろん、闇雲にただ一緒にいればいい、というわけではない。そこにはやはり、安心して出あえるための装置が必要なのだと思う。(※2)それが一体どのような装置なのか、どうデザインされるのかというのは、まだ分からないことが多い。それぞれの現場(人間関係の中)で、それぞれの人が試行錯誤している段階だろう。その中で「これは、新しい共同的な身体を作る実践だなぁ」と思った取り組みの一つを紹介したい。

 ドキュメンタリー映画「みんなの学校」の舞台となった、大阪にある「大空小学校」は、特別支援学級を置かずに、全ての子どもが同じ教室で学ぶ。その取り組みの詳細は、映画「みんなの学校」や元校長木村泰子先生の著書(※3)をお読み頂きたいのだが、その中で印象的だったエピソードがある。教室や(生徒たちが集まる)体育館などで、大きな声を出したり、動き回ったりしてしまう子どもがいる。一般的には奇声だとか多動だとかと名指される困った行動も、本人の意思とはかかわりなく「そのようにしてしまう、せざるを得ない」振る舞いである場合が多い。そうした子どもたちが、授業中や集会中大きな声を出したとしよう。周りの子どもたちは、その子どものことが気になって振り返って見る。そうすると先生は、周りの子どもたちに言って聞かせる。「今なんで見たのか」「見られた子どもは、嫌な気持ちになる」「声を気にせず、集中できるようにならないといけない。」「まわりに大人がいるときは、ちゃんと(その子どもに)対応しているから大丈夫。」「でもまわりに大人がいない時には、何を置いてもその子を助けないといけない。」そうするうちに、子どもたちは大きな声が響く中でも、安心して授業(や集会での先生の話)に集中できるようになるそうだ。

 作家であり自閉症を生きる東田直樹さんが著書(※4)に書いておられたのだが、急に大きな声を発したり、落ち着きなく動いてしまうのは、そうしたくてしているのではなく、それが周りから奇妙に見えることも分かっているからとても恥ずかしい思いをされている、とのこと。そのことを考慮に入れると、(大きな声に)びっくりして二度見をしてしまったり、ことの成り行きが気になってじっと見てしまうというのは、大変にご本人を辛い気持ちにさせる振る舞いであろうことが推察される。もちろん初めての出来事や、慣れないことにびっくりするのは当然なのだが、事情が分かり、しばらく同じ時を過ごしていくうちに「びっくり」することはなくなり、その振る舞いが特別な意味を持ったものから、意味のない「ちょっと変わったくせ」にかわっていく。その変化によって大きな声に注意がいかなくなり、本来すべきこと(授業や会話に集中すること)ができるようになる。もし大きな声を出す子どもと一緒にいなければ、「大きな声が響く中でも授業に集中できる」ような身体に変化することはなかっただろうし、先生が大きな声を出す子どもを注意し続けていたとしたら、(それは注意を向けるべきものとしてあり続け)そのような共存できる身体は成り立ち得なかったと考えられる。

 もちろんコミュニケーション場面はもっともっと複雑だ。どういった応答が、共同的な身体と言えるのだろうか。一部下記脚注で触れはしているが、今後はそこに焦点を当てて考えていきたいと思っている。

前の記事はこちら↓↓↓
「気まずい」を考える(1)
「気まずい」を考える(2)

※1
「分かっていても、感情的になってしまう」一例を挙げたい。ルポライターの鈴木大介氏は、脳梗塞後に高次脳機能障害を患い、自身の経験と発達障害の方々の経験との類似性を「脳が壊れた」(新潮新書)に記述している。その後、発達障害の妻を(自身の高次脳機能障害の)経験をベースにして理解し、様々な生活の工夫をしていく過程を現代ビジネスで連載している。(「されど愛しきお妻様」、とってもとっても面白いのでお勧めです!)

お妻様にはたまに相手の立場に立って物を考えるのが苦手なときがあって、その時の喧嘩の種がまさにそれだった。
「お妻様、来月○日の日曜日、KさんTさんと一緒に、食事に行くよ~」
「え、その日ってRさんたちと会う予定じゃなかった?なんでRさんたちのこと優先しないの?」
このやり取りだけで、僕は激昂してしまった。Kさんは余命宣告を受けている末期がん患者で、そのことはお妻様も知っているはず。KさんTさんと一緒に食事をする機会は、ここを逃せばもう訪れないかもしれないのだ。Rさんたちも大事な友人だが、どう考えても優先順位はKさん。なぜその気持ちを分かってくれないのだろう。感情があふれた。

 あぁ~分かるなぁこの感じ・・・

 お妻様に悪気が1ミリもないことも、分かっている。お妻様はただ、「最初に約束をしていた人たち」の情報が気になっているだけだということも。おそらくお妻様の中で、「Kさんは末期がんで余命宣告を受けている」ということと、「Rさんたちとの約束を変更する」ことが瞬時につながっていかないだけだということも。そういうことが全部分かっているのに、「なぜその気持ち(僕が末期がんのKさんを思う気持ち)を分かってくれないんだろう」と飛躍してしまう、その感じ・・・とてもよく分かってしまうのだ。私が今回の「気まずい」をテーマにした連載でずっと問題にしているのは、この「分かっちゃいるけど、(カチンときたり失望したりするのを)やめられない」難しさである。冷静に考えれば、お妻様だってKさんのことをどうでもいいと考えているわけではないことも分かる。「Kさんと僕の関係を大事に思っていないわけではない。」ことも。もっと言えば、きちんと「Kさんは余命宣告を受けて、もう会えなくなってしまうかもしれないからRさんとの約束を変更するよ。」と理由を伝えれば、お妻様はすぐにわかってくれるだろう。つまりお妻様に分かるように伝えたら、お妻様は「その気持ち」を分かってくれる・・・それなのに、(自分と同じような理解をたどる他者をつい想定してしまい)情報を端折ってしまった結果、お妻様の(ある意味もっともな)問いに対して「僕の気持ちが分かってもらえない、大切にされていない!」と怒ってしまうことになるのだ。このかみ合わなさ、頓珍漢さ・・・冷静に振り返れば滑稽だなと思えるが、その時の傷つきは(お互いに)大きい。

 意識が自由に「いま、ここ」を離れて、「予定変更する」という情報から「Kさんの置かれている今の状況」や「Kさんとの関係やKさんへの思い」、「Rさんが置かれている現状」「Rさんとの関係」などに瞬時に移動できる人は、つい相手もそうだろうと思ってしまうのでその移動の様子を実況中継的に伝えたりはしない。それに「ふわっと派」の人々においては、各情報全てが意識にあがって認識されているわけでもなく、各情報が総合的に「意味」するところである「Kさんへの思い」が「予定変更する」判断へと方向づけているにすぎない。つまり判断の時点ですでに(情報に)意味づけ(重みづけ)がなされているわけだから、「なぜ予定変更するのか」は本人にとってあまりに自明であり、あえて言語化される必要もないものなのである。だから同じ情報源を共有している他者を目の前にしていれば伝わるだろうと、ある意味省エネで言語化の努力をさぼってしまうのは無理もない。しかしその結果伝わらないのは、「すでに本人に選択の余地がないくらいに重みづけられているほど」大切な何か、なのである。失望したり、悲しみに暮れたくもなるだろう。あとから冷静に振り返って自分に非があることが分かったとて、その時の感情はなかったことにできない。

 だから、「理解しましょう」だけでは全然足りないのだ。当時者研究などでそれぞれの方がご自身の特性をつかみ、発信してきて下さったからこそ、お互いへの理解は格段に深まったし、今後もまだ明るみに出ていない困難や困りに光が当たるといいなと思う。でも「そうなんだ」と分かったその先を、そろそろ考えていかなければならないのではないか。「その先」とは、「理解して、配慮する」の先のこと。つまり「理解と配慮が同時に起こる」ような身体化が必要なのだ。「この人はこういう特性があるから、情報を端折らずに伝える」と考えて行動するのではなく、「この人を目の前にすると、情報を実況中継してしまう」というタイムラグのない理解(行動)。・・・なんてエラそうに言っているが、「お前がまず全然できてねーじゃねーか!」というお叱りの声が四方八方から聞こえてきそう。でもこれは、環境に身を浸して学んでいかないといけない類の知なのだよなぁ。。(この期に及んで言い訳です!)

 とにかく「理解→配慮」とか、「理解→工夫」の間に横たわっているわずかなタイムラグが結構大問題になっている場合がある、ということはあまり言われていないように思う。

※2「慣れる」アプローチもそれぞれ異なっていることに留意する必要があると思う。一般的にとられがちな「失敗しながら学ぶ」ということが全く合わない場合もあり、後述する東田直樹さんもその点について論じられている。

※3
木村泰子著, 「みんなの学校」が教えてくれたこと 学び合いと育ち合いを見届けた3290日, 小学館, 2015.
木村泰子・出口汪著, 21世紀を生きる力 不登校ゼロ、モンスターペアレンツゼロの小学校が育てる, 水王社, 2016.

※4
東田直樹, 風になる 自閉症の僕が生きていく風景, ビッグイシュー日本, 2012.
それは、声を出すことが、自分の意思でやれるものだと考えているからです。だから、自分勝手に奇声をあげている人を見ると、迷惑だと判断するのでしょう。僕は、会話ができないだけではなく、声のコントロールもできません。口を閉じて静かにすることさえ難しいのです。やりたくないとか、我慢できないとかいうものではなく、どうすれば声を出さずにいられるのか、その方法がわからないからです。(中略)奇声をあげている時の心の中は、恥ずかしくて、情けなくて、悲しい気持ちでいっぱいなのです。人から冷たい視線を浴びるたび、この世から消えてしまいたくなるくらいです。(p60-61)

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