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内申制度。リスクという視点から

「私がいつか話す言葉が、二つもある~!」

  母娘でブルブル震えもって(今さら)観ているイカゲーム。ベースは韓国語なんだけれども、ドラマの中では時々英語も話されていて、韓国語と英語の勉強を続けているムスメさまが嬉しそうに言った。前回の記事(こちら)にも書いたけれど、中学入学当時は「ちーん」となるような点数しか定期テストでとれなかった英語。でも今は「いつか自分が話す言葉」にカウントされているんだね。なんだかもうおかーさんはそれだけで胸いっぱいだよ・・・ちなみにK-popを含めて韓国文化が大好きなムスメさま、この春からオンラインで韓国語のレッスンを受けている。英語と同様に素敵な先生に恵まれて、音楽や食べ物など身近なものを題材にしたレッスンが毎回とっても楽しいようである。学ぼうと思ったらどこでも何でも学ぶことができ、自分に合った先生を選べる。本当にいい時代だ・・・もちろんムスメさまが習っている先生がたは非常に良心的な料金設定にして下さっているとはいえ、学校以外での学びには少なからずお金がかかるので、学校以外でも学べるよ!万々歳!!ってことにはならないし、そういう話がしたいのではない。ただ「自信」や「意欲」を不当にくじかれさえしなければ、自分が学びたいと思うものに出会うことができるし、一歩踏みだすハードルだって低くなっている時代ではある。だから学校には一方的な評価で子どもたちの「自信」や「意欲」を叩き潰して欲しくないし、もしその可能性があるなら、それはもはや学校へ行くことの「リスク」であるとさえ言えると思う。

  前回の記事ではほとんど触れなかったが、内申制度によるリスクはもちろんほかにもたくさんあって、その中で最も懸念されるのはやはり「評価に合わせた学習をする」という構えが(子どもたちに)インストールされてしまうという点にあるのではないかと思う。学習内容を「理解する」ためではなく、「評価の対象になるから」(自分の学びに合うかどうかは不問にされて)課題をしなくてはならない状況で生まれるのは学びではなく「作業」である。作業をしているうちに学習内容が理解できるようになるという回路はなくもないが(おそらくそれが意図されているのだろうけれど)、そこで一番為されていることは「評価者の意図を読む・汲む」ことだろうと思う。どうしたら少しでもポイントをあげられるか、評価者の求めているものを考え、それになるべく忠実であろうとする。まぁそれも一つの能力、とりわけ日本社会をサバイブしていく能力の一つとも言えるかもしれないが、それは評価者に高く評価してもらうためのスキルであって、学習内容を理解する手立てに必要なものではない。そこをいつの間にか混同するようになり、本当は何よりも必要な、「自分に合った勉強方法」を試行錯誤する機会がまるごと奪われてしまっているように感じる。義務教育以降、生涯教育という観点で「自分の学びをデザインする」力が必須になってくるのに、「与えられたものでポイントを稼げ」と言われ続けることの弊害と損失はものすごく大きい。

  最近中学校で出される「課題」について相談を寄せられることも多いが、学習指導要領が変わったからなのか、やたらと内容を「まとめる」系の課題、「振り返りと気づきを書け」系の課題が目につくようになった。正直「これなら反復学習のドリルのほうがマシ」と私も思うくらい、面倒くささが極まった形になっていてビックリする。新しく出てきた用語について、学んだこと、分かったこと、これから活かしていきたいことなどを白紙の用紙にまとめて出すとか、私なら「ぎゃー!」と叫びながら地団駄踏んで、紙をビリビリ破きたいレベルで嫌である。こういうことが苦にならない人からしたら「なんでそこまで(嫌なの)?」と思うかもしれないが、実のところ私もやろうと思ったらできるし、なんならまとめるのは得意でもある。スライドの発表は苦にならないし、指導教官に「いつも分かりやすい。誇りに思う。」とまで仰って頂いたことすらある。でもそれは、自分が取り組んできた内容などを「他者に分かりやすく説明する」ことが目的だからできることであって、本来自分さえ分かっていればいいことをあえて他人に評価してもらうために「美しく」まとめるなんてどうでもいいことに、時間と労力をさきたくない。もう既にどこかに書いてあることを、読めば理解できるようなことを何で紙に(しかも手書きで)書き出さないといけないのか意味不明だし、たかだか用語の一つに毎回どえらい発見や気づきなんてある?おおすごい!これは面白い!という気づきや発見につなげるなら、その分野の最新の研究や学際的な研究を紹介したり、テクノロジーを駆使した映像でも探してきて見せておくれよ、と思う。まぁそれはともかく、何がすこぶる嫌かって、本来多様である理解の道筋を、他者が評価するために一つの形式に落とし込むよう強要され、しかもそれがものすごくコスパが悪いということ。100歩譲ってそれが、「ここは自分でまとめておいた方がいいな」と考えて選べるならまだしも、もう既に自分が理解していることですらやらされる。非合理にもほどがある。さらにカラーペン使えだの、きれいな字で書けだの(きっとタイプしたらダメとか言われる)、見やすさが評価の対象になったりもするのだからたちが悪い。

 がおー。
自分がやらされてるわけでもないのに、怒りすぎやん・・・でも辛い思いでなんとか頑張ってやっている子どもたちが実際にいるのだから、評価が欲しかったら決められた形での努力を差し出せと言わんばかりの、この現代版奴隷制度みたいなのほんとに考え直してほしい・・・

  なんでこんなに見た目重視のまとめ課題とか、ノート提出がさかんなのかなぁと不思議でならないのだけど、SNSでは割とよく黒板(板書)をうつした写真がアップされているのを見るので、学校(先生)には一枚にばーんと理解の形を示すっていう文化があるのかもしれないなぁと思ったり。スライドのほうに慣れた脳では、黒板の「横長で情報量が多い」「ぱっぱと切り替わっていかない」表示スタイルがしんどいなと感じるんだけど、小中学校はずっとあの文化なんだなぁ。「美しく、見やすい」板書は、どちらかというと芸術とか職人技みたいな雰囲気があって、それはそれで評価されていいとは思うんだけど、この究極形を子どもたちに求めているんだとしたら「それは違うよね」と思う。

  もうとにかく、どんなふうに勉強するかは子どもたちに選ばせてあげて、の一言に尽きる。まとめた方が分かりやすければまとめたらいいし、まとめなくても分かることはまとめなくていい。どちらかというと子どもたちにはその取捨選択をする力をつけて欲しいし、そのためのトレーニングを積ませてあげたいと思う。手段が目的化する状況を大人が率先して作るべきではないし、目的のために手段を選ぶという構えを子どもたちが実装するには、選択肢が提示され、実際に「選ぶ」という経験を積み上げていく必要がある。いまだ「シャープペンシル禁止」なんていうところもあるようだから前途多難な状況ではあるけれど、デジタルツールだって一律な用途での使用を強いたり、許可制にしている場合じゃなくて、「こんな使い方、あんな使い方ができるよ!自分に合った方法を見つけよう!」という方向にシフトしていって欲しい。

  わが家ではテストは完全なる絶対評価という位置づけを死守していて、「今の自分がどこまで理解しているか」確認し、できていないところを復習するためにムスメさまはテストを受けている。ところがうっかり私が「次は90点目指せ~!」と調子にのって言ってしまうことがあって、ムスメさまに「私はそういうことのためにテストを受けてるんじゃないの!できていないところがどこか知るために受けてるの。」とぴしゃりと叱られた。いやぁ私自身にかかっている競争原理の呪い、こういう時にひょっこり顔を出しちゃうんだから油断できない。そしてこの競争原理の呪いが、「学習内容を理解できているか確認する」というテスト(評価)の本来の目的を見失わせ、「テスト(評価)のために学習する」という本末転倒な事態を生み出したり強化したりしてしまうんだよね・・・受験という制度がこの仕組みを内包する形になっているし、大きな入れ子状態なんだろうと思う。

  ムスメさまは年明けの高校入試に向けて、現在作文に取り組んでいる。高校の教育プログラム(プロジェクト学習などやや特殊な教育プログラムをベースにしている)で関心のあるもの、そこで身につけたい力について書くことになっていて、ここでもまた「評価」を意識して書かせようとするズルい大人のワタクシがムクムクと湧きだしてこようとしていたんだけれども・・・なんてことはない。ムスメさまに「身につけたい力」について尋ねたら、「やりたいことがいっぱいあるから、自分から動けるようになりたい。今はやりたいと思っているだけだけど、人と一緒に実現していきたい。」と言っていて、高校の教育理念にしっかりと合致していた。この夏たくさんの高校を見に行って、自分の目で確かめ、悩みながら志望校を決めたムスメさま。もうすでに「やりたいこと」(目的)のために、手段としての高校を選び終わっていたんだった。だからわざわざ「高校側が書かせたいと思っているだろうこと」を忖度して書く必要もなく、素直に自分の気持ちや思いを表現すればいいだけという、シンプルでハッピーな状況を自ら生み出していたんだね・・・ぶれねーな、君。尊敬します・・・

  子どもさんが不登校という状態になって、いわゆる一般的なレールから外れることに対して大きな不安を抱え、心配されている親御さんも多いと思う。不登校に至る背景は子どもさんによって違うし、何がいいかなんて(未来永劫)分からないのだけれども、でも学校へ行くこと自体のリスクだってこうしてあるわけだし、そのリスクから身を守るために子どもさんがとれる方法は現状「行かない」という選択肢だけだったりする。それに対して周囲は「逃げるな。」「甘えるな。」って追い打ちをかけてくるけれども、リスクに対する感受性や耐性は人それぞれだし、リスクに晒されている内にじわじわとすり減っていってしまう何かについて考えると、「無理をしないこと」が一番大事であるように思う。「その子らしさ」をすり減らして得られるもの、それが何なのかは価値観によって異なるにしても例えば、「ほかの子どもたちと同じ(いわゆる普通)」「少しでもいい進学をする」「厳しい社会でやっていける(耐える)力」といったものと天秤にかけた時に、果たしてベネフィットがリスクを上回るのか。そういったことについても大人は向き合う、考えざるをえない時代になってきていると私は思う。

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