見出し画像

緻密な闇の設計図を玩味する

--『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』の歴史的背景 

三澤真美恵

この闇は幾層にも折り重なっている。少女を刺殺した少年の心の闇。ありきたりの日常とみえる生活の裏側に拷問や暗殺が貼り付いた戒厳令下台湾社会の闇。アメリカとソ連がイデオロギーをめぐって対立し、核戦争の恐怖が世界を緊張させていた冷戦の闇。

 デジタル・リマスターによって蘇った映像は、幾層にも重なる闇をひとつの作品のなかに結晶化させた、楊徳昌(エドワード・ヤン)監督の緻密な設計図を鮮明に浮かび上がらせている。ここでは、映画『牯嶺街少年殺人事件』(1991年)の歴史的背景を示すことで、闇をめぐる緻密な設計図を玩味したい。

台湾の歴史と日本の影 

 台湾には旧石器時代から人類が生活していたことを示す遺跡が存在するが、国際的に注目されるようになるのはオランダ、スペイン、鄭成功などが海上交通の要所として次々に政治経済的な拠点を設置した17世紀以後である。17世紀以前の台湾においては、先住民族(本作には明示的に登場しないが、南島語族に属し、現在の台湾では「原住民族」と称される諸民族)が人口の大半を占めていた。その後、19世紀末までの2世紀にわたる清朝の統治下で、中国大陸に起源をもつ漢族が人口マジョリティになった。だが、1895年の下関条約によって台湾は日本に割譲された。半世紀におよぶ植民地統治を経験した台湾は否応なく日本の教育や文化の影響を受けることになった。劇中の主人公たちが住む家の多くが日本式の木造建築で、その屋根裏から日本刀や日本女性の写真が出て来るのも、彼らが住む台北にかつて日本人の植民地官僚とその家族が多く住んでいたことの名残である。

外省人と本省人

 1945年に日本がアジア太平洋戦争に敗北したことで、台湾は中華民国(蒋介石率いる国民党政府)に接収された。これ以後、中国大陸から国民党政府と共に移り住んだ人々は「外省人」(がいしょうじん、台湾省以外の出身者)と呼ばれ、その多くは軍人や公務員、教員といった政府関係者とその家族であった。劇中の少年たちの多くも、監督の楊徳昌自身も、中国大陸から台湾に渡ってきた外省人である。他方、接収以前から台湾に住んでいた人々、すなわち日本の植民地統治を経験した人々は、「本省人」(ほんしょうじん、台湾省の出身者)と呼ばれた。したがって、1945年10月以後の台湾は、(仮に同じ漢族であったとしても)ついこの間まで敵だった者を今度は同じ社会で生きていく仲間として受け入れなければならないという、外省人にとっても本省人にとっても過酷な再会の場であった。

 本作は外省人の少年たちの抗争を軸にしており、外省人と本省人の対立について言及する場面はほとんどない。だが、台南から台北に戻ったハニーが萬華(ばんか、台北市内で本省人の集住する地域)の本省人ヤクザに匿われ、本省人の多い台湾南部に生活したことで「俺の台湾語も上達した」というセリフは、抗争を繰り返す外省人の少年たちの外側に、それとは別のコミュニティが存在することをうかがわせる。「台湾語」は「閩南語」「福佬語」とも言われる本省人の多くが話す言語であり、外省人が話す言語とは異なっている(もっとも、外省人が話す言語もすべてが「標準中国語」というわけではなく、それぞれの出身地の方言であり、劇中の夜間部の教室は「方言の標本箱」ともいうべき様相を呈している)。『楊德昌電影筆記』(時報文化出版、1991年)には、本省人の賭場の壁に日本髪を結った女性のカレンダーを掛けることで、密かに本省人と外省人の間の「隔たり」を暗示したと記されている。また、小四の母親が夕飯時に「日本と8年戦って、日本家屋に日本の歌…」と嘆く場面にも、真逆の経験(一方は中国人として日本と戦い、一方は日本人として中国と戦った)を持つ者が同じ社会に隣人として暮らす現状に対する諦観が滲んでいる。

国共内戦の敗北と眷村

 中華民国が台湾を接収したのは1945年だが、外省人の人口が急増したのは、1949年に国民党政府が共産党軍との国共内戦(国民党軍と共産党軍による中国国内での中国人同士の戦争)に敗れ台湾に撤退した時期である。その数は、100万人以上ともいわれる。1947年上海生まれの楊徳昌も1949年2月に家族と共に台北に移住し、本作主人公小四と同様1959年に建国高級中学の夜間部に入学している(のち昼間部に転入)。

 外省人の内部にも厳格なヒエラルキーが存在したことは、本作でもはっきりと描かれている。喘息の発作で住み込み使用人の仕事を解雇された母と共に小明が出戻りする従兄弟叔父が住む宿舎があるのは、階級の低い軍関係の外省人が集住する「眷村(けんそん)」と呼ばれる地区である(そこには故郷を失ったディアスポラによる閉鎖的で独特な文化が形成され、1970年代半ばには眷村を舞台にした「眷村文学」と呼ばれる文学ジャンルも誕生した)。劇中に登場する眷村の宿舎は板敷に茣蓙、水場は共同で、少年たちの好奇の視線や揶揄から逃げる場所もない。他方、階級の高い軍人の場合は、小馬のように広々とした家に住み込み使用人を雇い、最新の電化製品だった冷蔵庫で作った氷を無造作にジュースに入れて飲むほどの裕福さである。学校に乗り込んで小四に難癖をつけた眷村の少年たちが、小馬の一言で引き下がる場面にも、同じ軍隊に属する親同士のヒエラルキーが反映されている。滑頭が中山堂のコンサートを仕切ることが出来るのも父親のコネを後ろ盾にしているからだ。親世代の力関係が、少年たちの日常を後ろ側で支配している。そして、その親世代もまた、理不尽な事態を吞み込むしかない戒厳令下の恐怖に支配されていた。

冷戦とアメリカの影

 内戦に負けた国民党(中華民国)政府が1949年12月に台湾に全面撤退した直後、1950年1月にはアメリカのトルーマン大統領も台湾海峡に軍事介入しないことを表明した。それは、1949年10月に北京に成立した中華人民共和国(共産党)が台湾を武力「解放」し中華民国(国民党)政府が瓦解する事態になっても、アメリカはそこに介入しないこと、すなわちアメリカが中華民国(国民党)政府を見放すことを意味した。状況を変えたのは、1950年6月の朝鮮戦争勃発である。アメリカ政府は共産主義勢力に対する「不沈空母」としての台湾を確保するため、台湾海峡への介入を決定し、中華民国(国民党)政府との関係強化に転じた。中華民国(国民党)政府は朝鮮戦争の勃発によってかろうじて息を永らえ、アメリカがソ連や中華人民共和国という共産主義勢力を封じ込めるための「反共の防衛ライン」に組み込まれた台湾に、落ち着くことができたのである。

 本作に登場する小公園パーラーの天井を飾る旗は、「中華民国」「アメリカ」「国連」の3種類だ。それは、すでに中国大陸は新たに成立した中華人民協和国が実効支配しているにもかかわらず、中華民国(国民党)政府こそが中国を代表しているという幻想が、国連においても承認されていた時代を表している(国連の中国代表権が中華民国から中華人民共和国に入れ替わったのは1971年)。小四が小明に出会った「1960年10月、映画館で本編前に上映される国歌フィルムがモノクロからカラーに変わり、アメリカのニクソン副大統領は『ソ連と戦争になった場合にはアメリカは必ず核兵器を使う』と語った」(前掲『楊德昌電影筆記』)。中華民国(国民党)政府もまた、国共内戦を東西冷戦と結びつけることで、中国大陸を取り戻す夢を見続けることができた。内戦が冷戦の枠組みのなかで継続可能になったのである。当時台湾の街頭には「反共復国(共産主義を倒して中華民国を復興させる)」「反攻大陸(中国大陸に反攻する)」のスローガンが溢れ、大陸に帰郷する可能性を語る大人たちのそばで、少年たちは戦闘機に憧れた。「F104星式戦闘機が初めて自分の頭上に現れた時、私と兄は大興奮した。あれが、私にとって『反攻大陸』について最も自信に満ちていた瞬間だった」と、楊徳昌は当時を振り返っている(「顏色藥水和一樣藥」前掲『楊德昌電影筆記』)。プレスリーの甘い歌声が響く世界は同時に、戦争と暴力の気配に包まれていた。

戒厳令と白色テロ

 反共の防波堤として生き延びることができた以上、中華民国(国民党)政府は台湾を共産主義勢力が入り込まない「浄土」にすることに心血を注いだ。このため、政府による共産主義分子の摘発キャンペーンはきわめて熾烈であり、後年「白色テロ」と呼ばれた。1949年から1987年まで、世界に類を見ない38年にわたる長期の戒厳令の下、台湾では集会、結社、言論、報道、学問の自由が制限され、郵便や電報も検閲された。推計によれば、この期間に逮捕された政治犯の数は2万9407人、そのうち4500人前後が処刑されたとみられる。被害者の正確な数字は不明だが、「白色テロ」には共産党員やそのシンパの摘発のみならず、政府に対する異見分子の粛清、権力者内部の闘争による暗殺も含まれていたことがわかっている。

 戒厳令下、白色テロのなかで息を詰めるようにして生きた人々の緊張と恐怖は、父が警備総司令部に連行された後の一連の場面に集約されている。取り調べ室の外廊下で引きずられてくる巨大な氷に行き会った小四の父と同様、観客は「なぜ、こんなところに氷が?」という疑問を抱く。そして、その疑問はやがて文字通り背筋が凍るような恐怖と共に氷解する。同時に、まさにこうした血も見当たらず叫び声も聞こえない不可視化された恐怖と暴力が、この時代の台湾を覆っていたのだ、ということが瞬時に理解されるのである。

 少年たち、少女たち

 帰宅した小四の父親は、「僕には君と子供しか残っていない。……脅かさないでくれ」と妻に弱々しく訴え、妻は泣きながら夫を抱きしめる。大人たちですら、出口のない闇のなかで震える手を伸ばして愛する者にすがろうとする世界の只中、少年たち少女たちはそんな大人たちに心配をかけまいと歯を食いしばり、仲間との友情、恋人の愛情に必死で救いを求めるしかなかった。劇中には、彼らが自らの命運を託す徒党集団、「小公園」「217」「南海路」などの「太保幇(たいばおばん)」が登場する。「太保」は眷村の隠語で「ヤクザ、不良少年」を指し、「幇」は「団体、秘密結社、仲間」を意味する。彼らは自らを疑似家族、「兄弟たち」とみなし、仲間のためには命がけで喧嘩をした。

 本作が実際に起きた殺人事件をモチーフとしていることはよく知られている。事件が起きたのは、楊徳昌が建国高級中学の昼間部に転入した翌年の1961年6月15日で、加害者の少年Mは建国中学夜間部を退学になっていた16歳(浙江省出身)、被害者の少女Lは同校在籍中の15歳(山東省出身)だった(当時の新聞には未成年犯や被害者の氏名住所まで記されている)。少年は恋敵に対抗するため自らに「鐘璧」、少女に「小玉」というあだ名を付け、彼女のために「璧玉幇」を組織したという。劇中では小明の母は死亡するが、少女Lの母は救急治療で一命を取り留めている。母一人娘一人の家庭であったことは劇中と同様である。しかも、少女の父は国共内戦で機密を保守するために戦死した軍人(山東省出身)で、大陸から台湾に逃げた妻は女手一つで少女を育て、夜間部に通う娘の帰宅を毎晩バス停で待っていたという。眷村にはこうした貧しい山東省出身者(とりわけ兵士として無理やり軍に連行された元農民)が多く、自殺未遂をした被害者の母には多大な同情が集まった。他方、加害者の父は浙江省出身(浙江財閥は蒋介石の支持基盤で、劇中でも父の同郷者がその恩恵に浴していることが暗示されている)で安定した収入のあるインテリ公務員であった。にもかかわらず、加害者の父は被害者の母に対する補償を渋っていたとされ、ルポルタージュ作家の管仁健は、こうした事態が外省人同士の衝突につながることを恐れた政府が、事件は単なる少年少女の恋愛悲劇だとアピールするために少年のラブレターを新聞にリークしたと見ている(ウェブサイト『你不知道的台灣』)。

 同世代で、同じ学校に通っていた楊徳昌が、そうした報道から受けた衝撃がいかに大きかったか、想像に難くない。自分たちがどのような闇に閉じ込められているのか、少年はどのような気持ちで少女を求めていたのか、なぜ恋敵を待ち伏せていたのに少女を殺すことになってしまったのか。

「当時世間を騒がせたこの事件は、決して一つの特例ではなく、実はあの抑圧された時代に対抗するロマンと情操とを提供するものであった。本作の重点もまた、あの特殊な身の回りの環境がいかに一つの悲劇をもたらしたのかを検討することにある」(「〈牯嶺街少年殺人事件〉創作縁起」前掲『楊德昌電影筆記』)。

 映画監督となった楊德昌は、少年時代に衝撃を受けた事件の背後に広がる闇の深度を、折りたたまれた闇の層を、まばゆい光のなかに見事に示して見せた。冷戦期台湾の闇が、これほど緻密に、これほど鮮やかに映し出された映画を、我々は他に知らない。


初出について

『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』(1991年、楊德昌エドワード・ヤン監督)の4Kレストア・デジタルリマスター版(3時間56分版)2017年劇場公開時パンフレットに掲載された拙稿を、配給会社ビターズ・エンドの許可を得て2022年9月20日に、この三澤研究室ブログnoteにアップしました。その際に、ルビをカッコ書きに改めるなど、一部をウェブ用に変更しました。

ページトップのスチル写真

『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』©1991 Kailidoscope
Blu-ray発売中(販売:ハピネット)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?