遠くからきみを見ている

おっさんずラブを観て発作的にnoteを登録した。言いたいことや伝えたいことであふれそうだったからだ。あのドラマは私の中に眠っていた気持ちを久々に揺り動かした。
昨日ドラマを視聴し終わって一番最初に思ったことは一つ、
「ああ、私も恋がしたい」
ただそれだけだった。
あのドラマの本質は多くの人が口々言っているように「人を愛するとはどういうことか」ということに尽きるのだと思う。もっといえば「愛することのフェアトレードについて」語っているのだと思う。
牧は付き合っていたころずっと春田に「つきあってもらっている」と思っている節があった。ノンケの人間は結局のところゲイにはなれない、だとか好きになったのは僕からだとか、そういう考えに加えて彼自身の自己肯定感の低さが、春田が牧を「選んだ」ことを見えなくしていた。僕なんか、が牧の口癖である。ちずが牧君は完璧だね、というシーンがあるがそこで牧はあいまいに笑って僕なんて欠陥だらけ、という。
眉目秀麗であり、人当たりもよく仕事もできる。料理上手で家事も手際よくこなす。文句の付け所のない完璧な人間である。
これは、牧が身に着けた鎧なのだ。
本当の牧という人間は頭がよく繊細で臆病なんだと思う。そして驚くほどに自己肯定感が低い。外の人間から完璧に見えるのは牧が長い年月をかけて作り上げた鎧であり、虚像だ。おそらくは自分自身のセクシュアリティについて悩んだ期間も長かったのだろう。他人と違う自分をひた隠しにし、こうでありたい、と思うものになるために努力し続けた結果、途方もない鎧ができてしまったのだ。他人から称賛される鎧と本当の自分の間で摩耗していく。努力すれば努力するほど作り上げられていく鎧から逃れられない。そういう息苦しいところで彼は生きてきたのではなかろうか。
自己肯定感というのは非常に厄介なもので単に称賛されたからといって満たされるものではない。他人から評価してもらえることで得られる承認欲求とは違い、自分自身が納得しなければ得られない自己肯定感は非常に厄介なものである。どれだけ称賛されても自分自身を認められない、それは偽りの自分である、そういったものに付きまとわれる。傍から見たらその鎧も含めて君なんだからいいじゃないかといわれるが、本人の中では全くの別人のようなものだから救いようがない。
牧が春田とルームシェアしだしたころ、牧は母親以上に献身的な働きを見せる。かいがいしいと言ってしまえばそれまでだが、同じ仕事をし、家事全般を行い続ける姿は常軌を逸しているようにもみえる。春田さんのためにだったらなんでもできる、その行動の裏にはぞんざいに打ち捨てられた自分自身がいるのだ。
彼の傍にいられるのなら、全て押し殺して彼が望む「牧」でいよう。
彼が幸せでいるのなら僕はそれでいい。そんな牧の姿を見続けながら、それは違う、それは違うんだよ牧くん!と何度テレビの前でそう叫びそうになったことか。

ラブコメを見ているはずなのに苦しくて苦しくて、昔のことを久々に思い出した。

好きで好きで堪らなかった相手と2年ほど付き合っていた時代がある。
何を隠そう私自身自己肯定感の低い人間であり、牧くんと同様の生き方をしていた。正直、今でも自己肯定感は低いし、他人からの評価との間で苦しんでいることは変わらないが、昔は今よりもずいぶんと酷かった。こんな私と付き合ってくれるなんて、嫌われないようにしなきゃとか、周りに付き合っていることをうっかり話して彼が笑われたりからかわれたりしたらどうしようなんてことばかり考えていた。今考えれば、それでもお前を選んだんだからその考えは彼に対しても失礼だ。それでも当時はそれでいっぱいいっぱいだったのだ。物分かりのいいふりをして、大人ぶって、自分を押し殺していた。結果、私は浮気されたうえで振られたのだ。
なんだかあの二人、最近いい感じに見えない?と言われていたことも知っていたけど問い詰めたりしなかったのはひとえにわがままを言って嫌われたらどうしようという思いが先に立ってしまったからだ。ここでなんでその子とそんなに仲良さそうにするの?と言えていたら何かが変わっていただろう。私は彼に愛されている自分が信じられなかった。
彼の気持ちなどこれっぽっちも信じられていなかったのだ。
ずいぶんと悔やみもしたが10年も過ぎればそんな気持ちもどこかへ消えて行ってしまっていた。
ところがこのドラマを7週間見続けてその時の気持ちが顔を出し始めた。
あのときこうしていればよかった、そういった後悔が牧の動きにトレースされていく。コメディシーンでは笑いながらも身を引き裂かれるような切なさで泣いていた。6話の最終パートで部長と春田が同棲しているシーンを見たときは膝から崩れ落ちるような気持ちだった。
牧凌太という青年をどうしたら幸せにできるのか、彼の自己肯定感を呼び覚ますためには一つの方法しか思いつかなかった。
「春田に好きと言わせる」
これだけだった。結論からいうと公式はこれを最高のかたちにして電波に乗せてくれた。片思いだと信じて疑っていなかった相手から、付き合ってもらっていると思っている相手から自分と同じ熱量の気持ちをもらうことで彼は存在意義を見出せたのだ。まさに過不足なく愛し、愛されることを体現した。この人が大切にしたいと思っている自分を大切にする。それができるようになった牧の姿が7話の最終パートだと私は思う。
オーロラが100年の眠りから覚めるために王子のキスが必要であったのと同じように、牧が自分を愛せるようになるために春田のハグが必要だったのだ。
あの最終回を見たときにふいに私の中で凝っていた気持ちも溶けてなくなっていった。この10年強、私はどこか後ろ向きに生きてきた。もうこのまま一人で生きていくのならば出家してしまってもいいかもしれないとも真剣に考えていた。最後に部長が「最後から5番目の恋」という。幸せな記憶を抱きしめて、今はまだつらいけれど、前向きでいるその姿に私ももう少し頑張れるのかもしれないと思った。


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