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東京異聞禄:20231012--死んだ地図に巣食う異形

2023年10月12日:晴れ/東京

地図は死ぬ。そう思い知らされたのは、目黒区駒場三丁目にある井の頭「駒場東大前駅」を出てすぐの細い沿線をほんの数分歩いた場所に佇んでいる大きな案内板を目の当たりにしたときのことだ。


デカデカと記載されている「SINCE1954」と「駒場東大前商店街」の文字。必ずしも看板が立てられたのが1954年というわけではないだろうが、色褪せ、錆びて、誰からも見られていないようなオーラと妙に昭和的なデザインのおかげで、およそ70年前の看板といっても信じてしまいそうだ(「まいばすけっと」が記載されているから、実際はそう古くはないのだろうが)。
私はこの付近に引っ越してきて一年程度だが、駒場東大前商店街は静寂で満ち満ちている印象でしかない。また、わずか一年で商店街にある東大生に愛され続けていたたこ焼き屋や駅前のマクドナルドがなくなったこともあり、ますます静かになるだろうというイメージが勝手に植え付けられている。

もし、この案内板に掲載されているお店がほとんどなくなっているのであれば、きっと地図は「生きている」とは言えないのだろうか。情報としての死、案内板としての役割の死、誰にも見られることがなくなるという存在としての死など色々な捉え方はあるだろうが、この妙に寂しさを感じる原因は、きっと地図を通して何かしらの「残滓」を憶えるからといっても差し支えはないだろう。

そして「異形は遺骸に群がる」。地図を食い入るように見つめる私の横を少し迷惑そうに通り過ぎていく女性には見えないのだろう。そしてきっと聞こえないのだろう。まるでジオラマのように地図上を這う無数の影と、遠くから聞こえるざわめきと、夕焼け小焼けの音色が。

異形の仮称:焼き付いた記憶の影

まず、これから語るのは、あくまで奇妙奇天烈な東京に生きる私の視点であることに留意してもらいたい。電子の海に妄言を垂れ流すのは、あくまで私の自己満足とあわよくば同じものを見える人や好奇心を満たしてくれる人に出会いたいからだ。
私は異形に勝手に名前を付け、頭の中で呼称している。そうすることで少しでも私の認識の範疇にフレーミングしようという情けない抵抗なのだが、このようなレポートを書く際には便利だと、この文章を書きながら気づいた。

写真を撮影したのは、夜中の21時を回った頃だろうか。案内板の目の前にある小さな踏切を渡った瞬間、いつも聞こえるのが「夕焼け小焼け」のメロディーだ。おそらく、多くの日本人にとって夕方17時や18時のチャイムとして耳の奥に焼き付いているのではないだろうか。
その音色が少し離れた外灯の光に照らされる案内板からはいつも聞こえている。そして目の前を通り過ぎようとすると、人々の微かなざわめきがチャイムに混じるのだ。私がこの案内板の「おかしさ」に気づいたのは、ビジュアルではなくこの音だったのを今でも覚えてる。

ふと、案内板の前で足を止めると日に焼けて焦げたような背景に、薄っすらと残っている青色の道路の上を、ぽつぽつと小さな影が動き回っているのが目に入る。最初は錆びの錯覚か、もしくは虫かと思ったのだが、よく見ると全く違う。それは数十はあろうかとぼんやりとした人影で、道路の上を思い思いに動いているのだ。初めて見たときは、その光景に戦慄した。基本的に私は異形は視界に収めないようにしているからだ。形容しがたく、おぞましい姿をしている異形と目を合わせたり、反応してしまったりすることにメリットがないことなどいい大人ならすぐに分かるだろう。
「ヤバい」と思ったが、私の体は硬直し、案内板から目を離せなかった。幸運なことにも有象無象の人影たちは、そんな私にはまるで反応せず蠢いているだけだ。10秒、いや3分くらい経った頃だろうか。私は凝視し続けていた。そして、あることに気付いた。
人影のいくつかが案内板に掲げられている店の前で止まったり、店名のなかに入るように消失しているのだ。このとき、私の脳裏に鮮明な光景が広がった。

車がすれ違うのがやっとの細い道路。その両側には緑や赤の幌を突き出した小さな商店がぽつぽつと軒を連ねる。ほんのりの香るカレーの匂いは、きっと窓が開けっぱなしになっている小さなレストランが犯人だろう。ゆっくりと歩くのは、腰の曲がった老人や手をつないだ親子。さらにふざけて肩を叩きあい、笑いあっている学生たち。商店街の狭い空は夕日に染まり、電線が影を作っている。

――これはきっと、この通りの記憶なのだろう。

そこまで考え、私ははっとして案内板から目をそらした。
商店街すらないド田舎出身の私が知らないイメージに、郷愁すら覚えてしまった。それが急に恐ろしくなったのだ。
夕焼け小焼けのチャイム音も、ざわめきも、未だに聞こえる。それがひどく恐ろしく感じて私は一歩後ずさりした。
あの人影はきっと、永遠の夕刻のいつかの商店街を生きているのだろう。とうに終わりを迎えた、死んだ地図に終わりなんてきっとやってこないのだから。もし、脳裏に刻々とあの商店街のイメージが明瞭になっていったように取り込まれたとしたら、多分、戻れない。

そう感じて以降、私は不用意にその案内板に近づかないようにしている。ただ、たまにこうして夜中にやってくる。案内板からは私がいつも感じている異形からの「悪意」を感じない。そして何よりも私はまだ今年、一度も故郷に帰られていないのだ。
夜、寝る前のセンチメンタルに耽るくらいなら、多分、あの記憶の影たちも許してくれるだろう。

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