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【短編小説】ケッカイ / 篝昴

心が凍った音がした。

「痛い」とか「冷たい」とかを感じる間もなかった。
ただ、キン、と小気味いい音だけが耳にこだましていた。

凍った原因も言葉も、確かにあったような気がする。
『あったような気がする』と表現したのは、
今となっては全ては遠い霞の向こう側だからだ。

人物、言葉、表情、時間、場所。
凍った瞬間に知覚していた全てを

「どうでもいい」

その一言に全てを包み込み、押入れにしまい込んだ。

———

冬が過ぎ、春を越えた今も、依然として自身の左胸は凍っている。
しかし、日常生活に然程支障はない。
身体は問題なく動くし、服を着てしまえば凍っていることは外部から認識出来ない。

しかし、1つだけ気掛かりなことがある。
それは、身体中を覆っている僅かな虚無感だ。

この「僅かな虚無感」というものが如何せん鬱陶しい。
部屋の中を小蠅が飛び回るような、痒い所に手が届かないような。
拭おうにも拭えず、思考の一角を常に支配している。

如何にして虚無感を払うか。
そこで、先人に倣い、試しに檸檬を1つ買ってみる。
家中の本という本を集め、積み重ねる。そうしてそのてっぺんに檸檬を1つ置いてみる。

目を閉じて、爆発する様を想像する。
ゆっくりと目を開ける。

相変わらず眼前には、積み上がった本の上に悠然と檸檬が佇む構図があった。
並ぶようにして、幾許か膨らんだ虚無感もそこに佇んでいた。

———

ある朝、起床して覚えたのは、微かな違和感だった。
違和感の正体を探せば、それが自室の押し入れの戸がほんの少し空いていることだと気づく。
ここ数ヶ月開けた覚えはない。であれば何故?
そんな疑問諸共を振り払うように、ぐいっと戸に力を込める。

しかし、ぎぃという音を立てるだけでびくともしない。立て付けが悪いのだろうか?
何度力を込めようと、戸は全く微動だにしなかった。
戸が動くより先に、二の腕を倦怠感が襲う。
自身の筋力の衰えを感じ、大きく息を吐く。
ごろんと床に寝転がり、目を閉じる。

しかしながら、どうにも寝つけない。
視線が酷く煩わしいのだ。視線?どこから?

身体をゆっくりと起こす。視線の正体は戸の隙間だった。
無論、あの押し入れに誰かがいるはずもない。
しかし、あの隙間から覗く深淵が、どうも心をざわつかせる。

早く閉めなければ。焦燥感が心臓を打つ。
ん?心臓を打つ?凍ってるはずでは?いや、今はそんな事を気にしている場合ではない。
早く、早く、急いで早くどうして嫌だ早く早く早く早く早く早く早く早く
閉めなければ。

ピンポーン

「なあ業者さん。あの戸を閉めてはくれないか」
「ふうむ、どうやら立て付けが悪いようで。閉めるにあたり戸を一度外す必要がありますね。構いませんか」
「ああ、構うもんか。それより早く」
「はいはい、分かりましたよ」

業者は手早く軍手をはめ、戸に手をかける。
そうしてよっこいせ、という声と共に戸を外す。

途端、押し入れから濁流が押し寄せる。
人物、言葉、表情、時間、場所、感情、言葉、言葉、言葉、言葉。
あっという間に押し潰され、思考と視界が混濁する。

「ああ、お客さん。気をつけないと」
業者の間延びした声だけが響く。

「押入れの中は、きちんと整理しなきゃ」

パキン

——心が壊れる音がした。



先日TRPGで遊んだ際に自分の探索者が書いた想定の小説を書きました。
久しぶりに小説を書いたのであたたかい目で読んで頂けますと幸いです。

写真はみんなのフォトギャラリーより、
takasabaさんのものをお借りしました。


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