アリアンテ

 私の心の中にはいつでも夏がある。取り出して触れることは出来ないけれど、ガラス壜の中の船のように、眺めていることは出来る。と、大滝詠一をかけながら昼食の買い出しに向う車内で思う。窓を開けていないととても我慢出来ないほどに日照りに蒸し焼きにされそうな白昼だった。初夏はいつでも爽やかな気がするけれど、それは単なる私達の願望なのだ。本当の夏は、ふっと、見え隠れする雲間の太陽のように、私達を灼き焦がしにかかる。暑い、そう思ったらもう、夏なのだ。
 私は夏に関する詭弁だけは誰にも負けない。好きなのだ。単純にこの季節が。ワイン売り場で安物のワインを手に取ってラベルのアルコール度数を確認していると、その人は私の手に取っているのとおんなじものを籠に入れた。それから眼が合った。私の瞳をじっと見つめて、一秒、二秒、なんだか狂ってしまいそう。今朝飲んだスムージーのセロリが私の瞳を青緑色にしているんじゃないかと思うほど、その人は何かを確かめるように私の方をじっと眺めてから、そうして、「もしかして、××さん?」と私の名前を云い当てた。驚いた私が、返事をするのより先に、その人は私の手を掴み、酒売り場を抜け、魚売り場も過ぎて、山積みの夏蜜柑に目もくれず、店を出た。お金も払っていないのに、ワインも冷やしていないのに、私の右手にはただその人の左手だけが握られて、あとのことは何もかも夏のはじまりの陽射しの中に真っ白に溶けてしまった。
 その人のアパートは小高い丘の上にある、県内唯一の公立大学の裏手に、陽も当たらずきのこのようにどんよりと佇んでいた。膝丈ほどの雑草を踏みつけながら103号室の玄関の前に立ち、その人は鞄から鈴のついた鍵を取り出してチンチロと鍵穴に差し込んだ。ドアは軋みながら開いた。その人が私の手を引いたまま、駆けるように部屋の中へ上がり込むので、私も慌てて沓を脱ぎ飛ばしてお邪魔した。
 海の底みたいに暗い部屋だった。魚が泳いでいるんじゃないかと思ったら風の当たらない風鈴だった。その人はラジオをひねった。お昼のニュースが流れる。冷蔵庫から取り出したワインをグラスに注いで私に飲ませた。私はすぐに酔った。汗ばんで来たので窓を開けていいか尋ねると、その人は好きにしてと云いながらバスルームへ消えた。私はそっと窓を開けた。
 がたがたと曇り硝子が音を立てて、少し埃が舞って、それから風鈴が鳴り始める。吹き込んだ風は渚のにおいがした。そのにおいはどんどん部屋じゅうを満たしていって、その部屋の季節が変った。読みかけられたペーパーバックがめくれて閉じた。
 振り返るとその人は濡れた髪の先から落ちるしずくを、肩にかけたバスタオルで拭ってから、私にもシャワーを浴びるようにうながした。私は注いであったぶんのワインだけ飲み干してから、バスルームの戸を閉めた。
 ——風鈴の音はいつまでもこだましていた。
「その前にひとつ、訊いてもいい?」
 ベッドに並んで腰掛けたとき、私は尋ねた。
「実は君のこと、その、あんまり憶えていなくって……小学校の同級生だったかな?」
「ちがうけど。」
「じゃあ、幼稚園?」
「それもちがう。」
「そっか……。」
「今日、初めて逢ったんだよ。」
「え?」
「顔を見たら、その人の名前が判っちゃうんだ。そういう力があるんだよ。こうやって簡単に恋を始められる、魔法の力が。」
 鳴りしきる風鈴の音の中で、私は魚になった。

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