春のとなりで

 その晩ジュリーはとても泣きたい気持ちに包まれて、眠ろうか眠るまいか炬燵から半身を出して愛用の林檎を撫で回していた。彼の親しい友人に麦という男がいた。ジュリーにとって麦は唯一の同調によって繋ぎ止められている友人であった。互いに悪口を吐くこともなければ、くだけた冗談の数も極端に少ないのだ。彼らはいつも味方同士であった。ある意味少女同士の関わり合いのようでもあった。彼らはいつも酒を飲みながら互いの孤独について話したが、ふたりとも実は孤独ではなかった。そのことを薄々勘付き合いながらもなお、彼らにとって孤独という題材はいちばん酒を旨くするものにちがいなかったからそうしていた。
 麦は退屈をおそれる男だった。いつだって手帳の中身はスケジュールでいっぱいだった。そうしていないと自分の存在意義が判らなくなってしまうからだ。溜息つく時間など彼には必要なかった。ふたりが連れ立って歓楽街へ消えるとき、誘いをかけるのはいつも麦の方だった。ジュリーは彼からの電話が鳴ると、少し間を置いて受話器を取り、それから気怠く返事をした。それは往々にして賛成するものばかりだったが、彼は心底それに歓喜している訳でもなかった。彼にとって麦はひとりの酒飲み仲間で、それ以上でも以下でもなかったし、彼には真実に心を許せる友人などどこにもいなかったのだ。はなからジュリーは孤独の似合う男だった。
 ジュリーはいつだって警戒していた。誰といるときも笑顔を見せながらその裏で破滅をおそれていた。ジュリーは臆病だったのだ。ロマンの好きなくせに計算高かった。ジュリーには美しく生きる才能がなかったのだ。だから彼は自らの苦心によって汚泥の中から煌めきを選んで採った。彼の瞳のうつろなのは作られた芝居だった。演じることすら放棄したやつよりよっぽどましさ、と呟く声色の淋しさはいかんせん本物だったが。
 ふたりの影はいつも街のネオンを受けてアスファルトに投影された。夜露はセンチメンタルにその行き先を濡らした。乾杯の合図の空虚であればあるほど蒸留酒は喉にしみた。新しい銘柄の酒と、馴染みの酒と、交互に飲み比べながらめまいのするたび、彼らは夜を愛した。そのことに含まれる意義を考えもせず、また、考えればあっけなさに背筋の冷える予見がされたからである。彼らの行く先、街の向こうのずっと先の地平線では、丘の裏側の赤く煙るのが見える。彼らはそれを目指して歩き続けるのであるが、何、辿り着けばそこは暗闇。単なる焼け野原である。繰り返される週末のその回答は、死よりもおそろしい空っぽであった。
 ジュリーはヒロコと出逢ってから自らを見つめ直した。生活なんてもの、やめちまおうと思った。人生が生活の積み重ねだと思ったらそれは大間違いなのだ。生活とは戦うことを辞めた者のあきらめの回路なのだ。それを思い出したジュリーは夜の散歩から身を引いた。麦の孤独はいよいよ偽りのないものへと昇華していった。
 或る日麦がジュリーへ尋ねた。「今夜は久々に、一杯どうだい?」。軽く問いかけるふりをしていながら、麦は切実だった。一度でいいからあれらの夜を回帰させたいと願う麦の心を突き放すように、ジュリーは首を振った。それきりだった。麦は肩を落として去っていった。それ以来ジュリーの決意の前に立ち塞がるものはいなくなった。
 春が差し迫っていた。その晩ジュリーは涙をのんでいた。愛機の林檎は何もかもを映し出していた。彼はふと、麦のこれまでしたためてきた手記を発見してしまったのだ。そこには彼の歴史が刻まれていた。彼は恵まれていながら、淋しがっていた。そうしてその淋しさはどうやら紛れ物でもないらしかった。彼の悲痛な声が聞えるようだった。かつての晩に麦がジュリーのことを「親友」と表記していたのを知って、ジュリーはいたたまれない気持ちになった。ひとはいつだってジュリーの思っているのより幾らか優しかった。もう戻れないのかしら、などと憂いながら彼はその晩も金曜日であったことを思い出して、どこかで静かに酒を飲む麦の姿を必死に掻き消そうと目を瞑るのだが、どうにもジュリー自身友情を感じていたらしく歳月は彼を逃がしてくれはしなかった。彼は恥ずかしかった。それと同時に、ますます判らなくなった。人間というもののつめたさとあたたかさのあいだで彼は熱病にうかされて今夜もよくない夢を見るだろうと思った。

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