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ジェイムズ・ラヴグローヴ『シャーロック・ホームズとミスカトニックの怪』 名探偵と地獄の秘境探検行

 シャーロック・ホームズとクトゥルーという禁断の取り合わせを描く「クトゥルー・ケースブック」シリーズ、待望の第二弾です。前作から十五年、邪神たちと戦いを繰り広げるホームズたちの前に現れるのは、ルルイエ語を理解する奇怪な精神病患者。その正体を追う二人が知った、戦慄の真実とは……

 クトゥルー神話の邪神たちの存在を知ったホームズとワトスンが、人知れぬ戦いを始めてから十五年。今日もロンドンの地下鉄で危険な怪物を命懸けで倒した二人は、同じく邪神と戦う仲間であるグレグスンから、王立ベスレム病院に入院した精神病患者が、独房の壁や床に奇妙な文字を描いていると聞き、早速訪ねることになります。
 はたして、左半面に惨たらしい傷を負い、左手首のないその患者が、ルルイエ語で「ルルイログ」なる言葉を記しているのを目の当たりにしたホームズ。彼は患者のしゃべり方や手の特徴から、ボストンの上流階級出身の科学者であると推理し、それを手がかりに、患者の身元調査を始めるのでした。

 その結果、ボストン近くのミスカトニック大学の科学者、ナサニエル・ホウェイトリーが、ロンドンにいることを突き止めたホームズですが、ホウェイトリーは先週から消息不明。その一方で、かつてホウェイトリーが行ったミスカトニック川上流の探検で、同行した学者、ザカライア・コンロイが、先住民によって一生残る傷を負わされていたと知るのでした。

 あの患者こそコンロイではないかと考える二人ですが、その矢先、コンロイは病院から何者かに連れ去られて姿を消すことになります。あらゆる手立てを用いてコンロイを追った二人は、ついに彼が連れ去られたと思しき地に踏み込むのですが……

 前作『シャーロック・ホームズとシャドウェルの影』で、人知を超えた邪神が虎視眈々とこの世界を狙い、それを手助けする邪悪な人間や怪物たちが存在すると知ったホームズとワトスン。以来、邪神ハンターとして活動することになった二人は、肉体と精神を危険に晒す戦いを続けることとなりました。
 そして我々がよく知るシャーロック・ホームズの物語は、実はこの戦いの真実を隠すため、ワトスンが創作したものであった――という、一種のコペルニクス的転回が、本シリーズの基本設定であります。

 結局ワトスンによるホームズ物語は大ヒット、その収入が(探偵活動はほとんど行っていないので)実質無収入のホームズを助けている――と、作中ではなんとも皮肉な状況ですが、その葛藤からホームズが作中の自分を「殺す」ことを強く希望し、『最後の事件』が執筆されたという設定の本作。
 いわば大空白時代を舞台とした物語ですが、しかし「現実」にはホームズは「生き」ているという、ホームズパスティーシュの中でもかなりユニークな状況にあります。

 さて、そんな状況下で展開する本作は、始まりの物語であった前作を遥かに上回る量の聖典パロディが、序文の時点からふんだんに盛り込まれた作品となっています。
 カドガン・ウェスト青年は誰に殺されたのか。アグラの秘宝の恐るべき正体とは。あの魔犬との戦いの行方は。ホームズが瀕死となった理由とは。そしてベーカー街イレギュラーズの真の姿とは。なるほど、お馴染みの事件や事物も、神話的に解釈するとこうなるのか、と驚くばかりであります。もちろん生真面目なファンは怒り出すかもしれませんが、そこまでやってこその本作でしょう。
(ただ、個人的にはメアリー夫人の××はやり過ぎかと……)

 そんな、時にエキセントリックなまでの題材を投じつつも、おっと思わされるのは、ホームズとワトスンの微妙な関係性でしょう。
 先に触れた通り、終わりなき戦いに倦み、経済的にワトスンの世話になっていることに忸怩たる思いを抱くホームズ。作家としての自分の活動がもたらした結果に責任を感じつつも、ホームズの態度にも釈然としないものを感じるワトスン――ここで描かれる二人の姿は、もちろん本作ならではのものでありながらも、しかし聖典で描かれるそれを、より先鋭化した、まさにパロディだから描ける本質というものを感じさせます。

 さて、ここまで聖典と比較した本作について触れてきましたが、本作には前作にはない――そしてこれもホームズものならではの――大きな特徴があります。それは聖典でも『緋色の研究』『四つの署名』『恐怖の谷』と、長編四作のうち三作がそうであったように、現在の物語と、その現在の原因であり事件の動機である、過去の物語の二部構成となっていることであります。
 そう、ある状況で、ホームズたちが手にした日記。そこに綴られていたのは、彼らが探していた精神病患者と思われる、科学者ザカライア・コンロイの過去の物語だったのです

 ボストンの旧家に生まれ、優れた兄への劣等感に苛まれてきたコンロイ。しかし彼には脳医学に際だった才能があり、ミスカトニック大学に特待生として迎えられます。
 そこで彼を待っていたのは、るホウェイトリー家の青年ナサニエル。ホウェイトリーに魅了されたコンロイは、学内では問題児として知られる彼と始終行動を共にするようになり、やがてそれは周囲からの白眼視を招くことになります。

 そしてホウェイトリーに唆され、コンロイが行った実験――それは、生物の脳内のある物質を抽出し、他の生物に注入することで、意識を移し替えることができるというものでした。実験は成功し、サルにオウムの意識を移植したコンロイですが、それが露見したことにより、彼はは大学から放逐されることになるのでした。
 絶望に暮れるコンロイに対し、外輪船によるミスカトニック川上流の探検計画を持ちかけるホウェイトリー。従来の生態系とは異なる奇怪な生物たちが潜む地域を探検し、生物学の常識を塗り替える貴重なサンプルを持ち帰る――そんな計画に魅せられたコンロイは、探検に参加することを決意します。それが自分たちの運命を決定的に変えてしまうとも知らずに……

 本作のタイトルに冠されている「ミスカトニック」――クトゥルー神話ファンにとっては、言うまでもなくアーカムのミスカトニック大学が連想されますが、本作においては、(大学の名称の由来となったという)ミスカトニック川が、第二部の主要な舞台となります。「あの」ホウェイトリー家の人間の甘言で人生を狂わせた若き学究が、ミスカトニック川での探検でさらなる地獄に踏み込む――この第二部では、その様が、克明に描かれるのであります。

 そもそも、神話的存在と遭遇して惨劇に見舞われる秘境探検というのは、クトゥルーものの一典型という印象がありますが、本作はその舞台を、遠い異国ではなく、ある意味馴染み深いアーカム近くの地に設定しているのが面白い。そこで描かれる人々や風物には、古きアメリカの暗黒面と言いたくなるような何とも厭な感触で、クトゥルー的、というよりラヴクラフト的テイストが感じられます。
 そしてそれが縦糸だとすれば、横糸として存在するのがコンロイの禁断の研究であります。彼が「頭蓋間認知移動」と呼ぶそれは、いわゆる「脳交換」という如何にもパルプホラー的な題材をアップデートしたものといえますが、それがこの探検行と結びつくことで、更なる地獄を生み出すことになるのが実に素晴らしいところです。

 正直なところ初めは、折角の長編なのだから、過去の因縁よりも、よりスケールの大きな現在のホームズの活躍を描いてもらいたい――などと思っておりました(正直なところ、個人的に聖典の長編では『バスカヴィル家の犬』が一番好きということもあり……)
 しかし実際に読んでみれば、約束された悲劇に向かってグイグイと引っ張っていくストーリーテリングといい、描かれる事件のおぞましさといい、怪奇SFとしての完成度に驚かされた次第です。

 そして過去の物語と現在の物語が結びつき、大団円を迎えるのですが――正直なことをいえば、ここに来て少々トーンダウンしたように感じられるのが残念なところではあります。しかもその原因が、あまりに邪神の存在によるところが大きいというのがまた……(ある意味最大の謎でありトリックの真相があれというのはちょっと)
 実はこの事件自体が――という仕掛けは面白いものの、相手のスケールを考えれば、些か迂遠に感じられるところでもあります。

 こうした点はあるものの、ホームズがその内心の葛藤に打ち勝ち、「帰還」を果たすのはやはり嬉しいところで、直球と変化球を巧みに織り交ぜたパスティーシュとして、楽しめる作品であったことは間違いありません。

 本作は「クトゥルー・ケースブック」シリーズ三部作の二作目ですが、第三作目の邦訳も決まっている様子。はたして如何なる結末を迎えるのか、今から楽しみなのです。

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