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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった

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近世大名は防衛のため城下の街路を、敵が容易に近づけないように屈曲させたという。しかし各地の城下絵図を見るときれいな碁盤目をしてる城下が少なくない。いったい、通説はどの程度、真なの… もっと読む
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2019年7月の記事一覧

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(1) 第1章~第2章

 * 第1章 城下は本当に迷路か?  * 第2章 概要、用語の定義、調査手順の説明  (イマココ) (2)https://note.com/mitimasu/n/nc0c3134c67b5  * 第3章 地図調査――浮かび上がる、言うほど迷路じゃない城下町   * 3.1. 地図の出典   * 3.2. 交差点種別の定義について (3)https://note.com/mitimasu/n/n1b9c8ce647d2  * 3.3. 第一印象  * 3.4. 地点別調

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(2)第3章3.1.~3.3. 地図調査について

# 第3章 地図調査――浮かび上がる、言うほど迷路じゃない城下町## 3.1. 地図の出典本章の調査において、城下町の地図は正保城絵図を用いました。 出典: 正保城絵図 - 国立公文書館 デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0300000000/0305000000_6/00 非城下町の地図は明治~昭和前期の国土地理院地図(旧参謀本部陸

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(3) 3.3.~3.4.1. 東北編

## 3.3. 第一印象交差点の定義は終わりました。では、いよいよ地図調査の結果を見ていきます。 「全選手入場ッ!!!!」 ■ 城下町 弘前城 盛岡城 出羽本庄城 久保田城 米沢城 山形城 仙台城 棚倉城 二本松城 白河城 会津若松城 水戸城 古河城 小田原城 村上城 新発田城 長岡城 掛川城 大垣城 膳所城 桑名城 松坂城 大和郡山城 岸和田城 新宮城 篠山城 明石城 津山城 岡山城 備中松山城 福山城 広島城 松江城 丸亀城 大洲城 徳島城 高知城 小倉城 臼杵城 府

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(4) 第3章 3.4.2 関東編

3.4.2. 関東編■烏山城 城絵図に描かれた城下町の交差点数が50未満と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。 ■沼田城 城絵図に描かれた城下町の交差点数が50未満と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。 ■笠間城 城絵図に描かれた城下町の交差点数が50未満と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。 ■ 水戸城 図 3.4.2.1: 水戸城 方格設計は……ありまァす!(ネタが古い)。 えー……。 連郭式の縄

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(5) 3.4.3. 中部編

### 3.4.3. 中部編■ 村上城(新潟県) 図 3.4.3.1: 村上城 若干の乱れはありますが、なんとか平行と直角を守ろうと努力しており、方格設計による都市設計の意思は感じられます。 豊田武氏の『日本の封建都市』では村上城下を放射状街路に分類しています。しかし、この街路を放射状に分類するのは正直、違和感しかありません。 ■ 保内村(現・村上市坂町) 村上城の比較対象は保内村の坂町駅を中心とする2,500m四方としました。 図 3.4.3.2: 保内村(現・

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(6) 第3章 3.4.4. 近畿編

### 3.4.4. 近畿編 ■ 膳所城(滋賀県) 図 3.4.4.1: 膳所城 本丸の不定形を内堀で解消し、二の丸より外では方格設計が強く出ている点が目を引きます。 にも関わらず十字路の比率は低い結果となりました。 なるほど、城下の街路は複雑で、迷ってしまいそうです。 しかし、この城を攻めるなら、普通は琵琶湖から船で接近するのではないでしょうか? 陸路でも湖岸線をたどれば迷わず到達できる城であることは、子供でもわかる理屈です。 ■ 今津町(現・高島市) 比較

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(7) 第3章 3.4.5. 山陽山陰編

### 3.4.5. 山陽山陰編 ■ 津山城(岡山県) 図 3.4.5.1: 津山城 おおむね、方格設計が見られますが、河川に近いエリアでは平行・直角の崩れが見られます。河川地形の影響と考えられます。 さらに、城の西側では正方形に近い地割なのに、北西・南・南東と南西の端のあたりでは短冊形の地割となっています。都市計画の不統一感、はなはだしーい! 目を引くのは南東部の異常に連なる十字路でしょうか。京都に通じる道において十字路が連続するのは丹波篠山城でも見られました。

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(8) 第3章 3.4.6. 四国編

###3.4.6. 四国編 ■ 丸亀城(香川県) 図 3.4.6.1: 丸亀城 見ての通り、はっきりと方格設計が存在しています。 十字路の割合も、交差点総数が50~100の城下としては高い比率です。目抜き通りが南北に貫き、おおむね左右対称である都市設計は、中国大陸から伝わった都城制のフォーマットすら思い起こさせます。 北側の大手門の前に枡形のような広い空間が設けられているのは、人間が戦って防衛するという設計思想かもしれません。もしくは、江戸でもよく見られた火除け地と

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(9) 第3章 3.4.7. 九州編

### 3.4.7. 九州編 ■ 小倉城(福岡県) 図 3.4.7.1: 小倉城 こんなん笑うわ。卑怯! これは卑怯! 「大名が防衛のために城下を複雑化させたって本当?」 と調べてる人間に、小倉城の東半分を突きつけるのは卑怯と言うほかないでしょう。笑うしかないじゃないですか。 一方で西半分、主郭の存在するエリアはどうでしょう? 上級武士の侍屋敷は二の丸にあります。ここは完全に城地であって、方格設計はありません。 三の丸には侍町が出来ています。東側の侍町より1区画が

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(10) 第3章 3.5~3.6 地図調査の結果

## 3.5. 集計結果と地図調査の結論    城下町と非城下町に極端な差はない。そして、やや城下町の方が道が良い。 ### 3.5.1. 集計結果一覧城下町の集計結果を表 3.5.1と表 3.5.2に、非城下町の集計結果を表 3.5.3と表 3.5.4に示します。 表3.5.1: 城下町集計結果(1) 表3.5.2: 城下町集計結果(2) 表3.5.3: 非城下町集計結果(1) 表3.5.4: 非城下町集計結果(2) ※注:表3.5.3と表3.5.4について

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(11) 第4章 4.1~4.2 文献調査-江戸時代前期

# 第4章 史料文献調査 ――防衛策としての街路屈曲説が現れるのは江戸時代中期から ## 4.1. 文献調査の必要性について仮に、 「大名は防衛のため城下を迷路化させた」 というのが真実で、全国的にどの大名も実践した定番の手法であるならば、その証拠は当然に当時の文献に見いだせなければなりません。 「いや、それは軍事上の秘伝だから、おいそれと文書に記されるわけはない」 と、あなたは反論するでしょうか? しかし、都市計画より重要度の高い秘伝だったであろう、虎口の作り方、陣城

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった (12) 第4章 4.3. 汚名返上!蒲生氏郷は町割下手ではなかった

## 4.3. 汚名返上! 蒲生氏郷は町割下手ではなかった ### 4.3.1. 蒲生氏郷は町割下手だった?さて。江戸時代中期に行く前に、宿題をひとつ片づけたいと思います。蒲生氏郷です。 天才武将にも弱点があった。それは町割が下手ということ――そんな巷説がすっかり定着してしまった蒲生氏郷の町割を検証します。 彼は、本当に町割が下手だったのでしょうか。 いま、ネットに広く流布している氏郷伝説は、こうです。 上手にまとめられていますが、巷説は巷説。これがどの程度、信じ

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(13) 第4章 4.4 文献調査-江戸時代中期

## 4.4. 江戸時代中期(1690年~1779年) ついに出現する、防衛のための居住区街路屈曲という概念ほとんどの都市で基本的な町割が終わってしまっている時代です。 すでに松坂古謡で見た通り、この時代に、ついに 「(城地ではない)居住区の街路を屈曲させて防衛用途とする」 という概念が出現します。 ともあれ、時系列順に文献を追っていきましょう。 ### 4.4.1. 長沼流兵法:『兵要続録』(1690年頃)※この項で引用するテキストの引用元は 石岡久夫 編 『日本兵

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第4章 4.5 それは盛岡砂子から始まった

## 4.5. それは『盛岡砂子』から始まった  街路屈曲防衛術の論拠は江戸時代中期の巷説 ### 4.5.1. 一次ソースの名は『盛岡砂子』さて! さて! さてさてさて! やってきました桶狭間。ここが勝負の天王山。心しずめて賤ケ岳。天下分け目の関ケ原。ついに本丸天守閣。 天守閣って言い方は明治以降だ? うるせえやい、七五調にしたかったんじゃい。細けぇこたァいいんだよっ! いよいよ、街路屈曲防衛術の総本山に攻め入ります。 出典、出典でーす。みなさん、長らくのご乗車あ