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温故知新(33)武蔵七党 横山党 丹党 謙信景光   

 平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武蔵七党という同族的武士団が武蔵国を中心として近隣諸国にまで勢力を伸ばしていました。小野篁(おの の たかむら)の末裔を称する横山党猪俣党などの他、野与、村山、丹、児玉、私市などの諸党があり、1185年(または1192年)に成立した鎌倉幕府の勢力の根幹をなしたといわれています1)。

 東京都多摩市にある小野神社(おのじんじゃ)は、武蔵国一宮を称し、天下春命、瀬織津比咩命を祀っていますが、古くは小野氏祖の天押帯日子命を祀っていたという説があります。小野神社とメンフィスを結ぶラインの近くには、三峯神社奥宮があり、オリンポス山と小野神社を結ぶラインの近くには高妻山や、高良玉垂命(豊玉姫命)を祀っていると推定される高良神社(小鹿野町)や秩父今宮神社などがあります(図1)。したがって、小野氏は豊玉姫命とつながりがあると推定されます。

図1 小野神社(多摩市)とメンフィスを結ぶラインと三峯神社奥宮、オリンポス山と小野神社を結ぶラインと高妻山、高良神社(小鹿野町)、秩父今宮神社

 「横山党」は、小野篁の後裔とされ武蔵国多摩郡横山(現・東京都八王子市元横山町)を本拠とし、939年(天慶2年)、武蔵権守となった小野義孝は横山に館を構え、横山姓(横山党)に改めたとされます。「猪俣党」は、小野篁の末裔を称する横山党と同族で、保元の乱や平治の乱、一ノ谷の戦いで活躍した猪俣小平六範綱と岡部六弥太忠澄が有名です。小野氏が武蔵守として着任した際、石清水八幡宮を勧請して、八王子市元横山町に八幡八雲神社を建立しています。八幡八雲神社と、メンフィスを結ぶラインは、伊須流岐比古神社の近くを通り、雨の宮古墳群を通ります(図2)。天日陰比咩神の御陵といわれ、雌雄両亀の潜む所とされる雨の宮古墳群の1号墳(前方後方墳)・2号墳(前方後円墳)は、備前車塚古墳(前方後方墳)と箸墓古墳(前方後円墳)の組み合わせと同じです。1号墳の前方部にはかつて天日陰比咩神社(雨の宮)の社殿が建てられていたそうです。出土した銅鏃は、和珥氏の古墳と推定されている東大寺山古墳(天理市)、狭穂彦王建稲種命)の墓と推定されるメスリ山古墳(桜井市)に類例があり、雨の宮古墳群は、小野氏の祖の和珥氏の古墳群と推定されます。石川県鹿島郡中能登町二宮には能登國二ノ宮 天日陰比咩神社があります。

図2 八幡八雲神社とメンフィスを結ぶラインと、伊須流岐比古神社、雨の宮古墳群

 江ノ島の相模湾を臨む岩屋(龍神伝説発祥の地)に一番近い江島神社奥津宮は、多紀理比賣命(豊玉姫命)を祀っています。江島神社奥津宮とオリンポス山を結ぶラインの近くには、相模國一之宮 寒川神社(さむかわじんじゃ)や、神奈川県厚木市小野に鎮座する小野神社(閑香明神社)があります(図3)。閑香明神の「閑香(かんか)」は「しずか」と読め、「静神社」の「静」と同じく、豊玉姫命の「倭文神(しとりのかみ、しずのかみ)」を表していると推定されます。鎌倉時代には、源頼朝以来三代に渡り御家人として将軍に仕え弓の名手として名高い、愛甲村に館を置く愛甲三郎季隆が当社を篤く信仰していたといわれ、愛甲氏の本家である横山氏は小野妹子の子孫といわれています。寒川神社には、八角形の手水鉢や「八氣の泉」がありますが、教会の入り口にある水盤の形が八角形なのは、ノアの一族八人に由来していると考えられているようです。八王子神社には、スサノオ(牛頭天王)の八柱の御子神が祀られています。

図3 江島神社奥津宮とオリンポス山を結ぶラインと相模國一之宮 寒川神社、小野神社(閑香明神社)

 「丹党」は、丹生明神社(みぶみょうじんしゃ)を氏神とし1)、大丹生直(おおにうのあたい)の後裔ともいわれていますが、丹生氏の系図によると、桓武天皇の時代の家蔭は大和に住み、2代後の家信の代に武蔵介になったようです。武蔵北部の丹生神社が丹生川上神社を勧請したとの伝承もあり、大和で丹生川上神社に奉祀した丹生祝の一族が武蔵に移った可能性もあるようです。丹生氏系図によると丹生川上神社を奉斎した「稲村」の系統の「良直」は鎌倉幕府の御祈祷師となっています。埼玉県飯能市飯能の諏訪八幡神社の境内にある飯能丹生神社には、正一位丹生大明神(たんしょうだいみょうじん 稚日女尊)(写真1)が祀られています。また、境内社の飯能恵比寿神社は武蔵野七福神に数えられています。

写真1 丹生大明神(飯能市)

 飯能市にある中山氏の菩提寺の智観寺は、丹治武信が元慶年間(877-885)に創建した寺で、武信は同時に智観寺の北隣に紀州高野山の丹生明神を勧請(加治神社に合祀)したようです。「武信」は、宣化天皇や多治比氏を祖とする丹党系図では「丹党」とつながっていますが、丹生都比売神社社家の系図(図4)などによると「武信」と「峯信(峰信)」は兄弟で、「峯信(峰信)」の系統が「丹党」につながっています。「嶋」(多治比)の玄孫にあたる「真宗」は、桓武天皇との間に桓武平氏の祖とされる葛原親王を儲けています。丹党嫡流中村氏の系図にある丹治大夫「武綱」は丹生氏の系図にある丹貫主「峯時」の孫なので、丹党嫡流中村氏は、継体天皇(大丹生直 丹生麿と推定)の後裔と推定されます。

図4 丹生都比売神社社家系図 出典:(現在 Not found)http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02131.htm

 多治比氏を本姓とする丹党の安保氏(あぼし)は、賀美郡安保郷を本領とし2)、賀美郡、児玉郡に怨霊鎮魂の意味の丹生社がありました3)。武蔵武士の分布を見ると、上野の「安保」は「丹」と隣接していますが(図5)、「丹」は丹生氏と考えられ、また、桓武天皇の孫の阿保親王が中央との兼官ながら東国の国司を務めていたことから、安保氏(阿保氏)は阿保親王と関係があったと思われます。安保氏は多胡羊太夫の討伐に関係していたかもしれません。

図5 武蔵武士の分布(部分) 出典:田代 脩「武蔵武士と戦乱の時代」2)

 埼玉県児玉郡上里町勅使河原にある丹生神社(たんしょうじんじゃ)は、平安時代の末期にこの地に住んだ勅使河原氏の鎮守ですが、「武綱」の4代目の「直時」が勅使河原氏を称しています(図4)。下野国の豪族に丹生時綱がいて、武蔵国の多摩郡小丹生村熊野神社の神主家が丹生氏だったようです4)。丹経房の孫に横瀬時綱がいるので(図4)、丹生時綱かもしれません。平家物語には「上野国住人丹生四郎」の名前があるようです。時綱の弟の時景が弥郡四郎とあるので(図4)、1157年に丹生神社(富岡市下丹生)(図6)を再建した丹生四郎かもしれません。富岡市の丹生神社は、飯能丹生神社とオリンポス山を結ぶラインの近くにあり、ギョベクリ・テペと飯能丹生神社を結ぶラインの近くに山の神古墳(小鹿野町)があります(図6)。これは、山の神古墳の被葬者が、丹生氏の多胡羊太夫(宇胡閉)と推定されることと適合します。

図6 飯能丹生神社とオリンポス山を結ぶラインと丹生神社(富岡市下丹生)、ギョベクリ・テペと飯能丹生神社を結ぶラインと山の神古墳(小鹿野町)、勅使河原丹生神社(児玉郡上里町勅使河原)

 1323年に、武蔵七党「丹党」嫡流中村氏の時基(大河原左衛門尉丹治時基)が、備前長船鍛冶の景光に造らせた内反りの短刀(国宝 謙信景光 埼玉県立歴史と民俗の博物館蔵)(写真2右)や、1325年に、時基とその父の武蔵国秩父郡を本願とし播磨守護を勤めた大河原入道沙弥蔵蓮が、景光・景政に造らせた太刀(現御物)(写真2左)には、「秩父大菩薩」の文字が刻まれています2)。備前の刀工集団のうち「長船派」は、鎌倉時代後期以降に興った刀工集団で、備前国邑久郡長船(岡山県瀬戸内市長船町長船)を拠点としていました。これらの刀は、1235 年に落雷のため焼失した秩父神社の再建に際して奉納されたものとされています。時基の孫の中村行郷が、妙見宮の造営に関わっていることから3)、時基は、大河原氏ではなく中村時基で、父の大河原入道沙弥蔵蓮は中村時勝と推定されます。謙信景光は、秩父神社から流出した後、上杉家に伝来し、大二次大戦後は個人蔵となっていたものが、1956年に国宝となり、1993年に埼玉県が購入しています2)。飯能出身の中山氏の系譜によると、宣化天皇の曾孫、多治比古王、その子嶋より出で、高麗郡へ進出した祖先の家勝のとき中山氏を名乗るようになり、家勝は上杉方に属していたようです。「謙信景光」は、中山氏から上杉氏に渡ったのかもしれません。

写真2 御物(左)と国宝「謙信景光」(右) 出典:田代 脩「武蔵武士と戦乱の時代」2)

 時基の刀の銘にある「大河原左衛門尉丹治時基」の「丹治」は、武蔵七党の丹党の出自を示す姓で2)、「左衛門尉」は、元は官職名で左衛門府の判官でした。長船町にある靭負神社(ゆきえじんじゃ)の「靫(負(ゆきえ)」とは、古代の中央軍事機構の一つである衛門府(えもんふ)のことです。「大河原」という銘は、『古事記』の倭建命の薨去の段に記されている「大河原」で、倭建命の子孫を表していると思われます。丹党の武平の子の行房は白鳥七郎といい、この系統の本領は白鳥荘といわれていますが3)、「白鳥」も倭建命と関係がありそうです。秩父郡三山(さんやま)郷(現埼玉県小鹿野町)を本拠とした丹党嫡流中村氏から分れた大河原氏は、同郡大河原(おおがわら)郷(同東秩父村)に居を構え名字としたとされます。武蔵は『日本書紀』の日本武尊の行程地にあるので、秩父郡には、倭建命に因んだ「大河原」の地名があったと推定されます。

 丹党の右馬允中村時経の子の時季は弥四郎といい「大河原」を称したので3)、埼玉県飯能市大字大河原にある金蔵寺に伝わる「大河原四郎」は時季と推定されます。ギョベクリ・テペと秩父神社を結ぶラインの延長線の近くに金蔵寺や観音寺(飯能市山手町)があります(図7)。

図7 ギョベクリ・テペと秩父神社を結ぶラインの延長線と観音寺、金蔵寺、小鹿野町、武甲山

 大河原四郎が勧請したといわれている飯能市にある軍太利神社(写真3)の祭神は加具土命で、軍太利神社の近くに大河原城のあった龍崖山があります。軍太利神社とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くに、武甲山、山の神古墳、日本武尊ゆかりの小鹿神社(おしかじんじゃ)、白馬岳があります(図8)。白馬岳の名の由来は、苗代づくりの季節に現れる雪形(ゆきがた)の「代掻き馬」(代馬=しろうま)ですが、イギリス、バークシャーの丘陵地帯には、地肌の白い土を露出させて描いた、巨大な白馬の地上絵「ケルトの白馬」があります。

写真3 軍太利神社(飯能市)
図8 軍太利神社とギョベクリ・テペを結ぶラインと武甲山、山の神古墳、小鹿神社(秩父郡小鹿野町)、白馬山

 龍崖山にはマンガン採掘跡が残っていますが、作刀に使用するため鎌倉時代から採掘されていたのかもしれません。和同開珎(わどうかいほう、わどうかいちん)は、秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(にきあかがね、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、708年に「和銅」に改元するとともに作られたと推定されています。武蔵七党の「丹党」には、惣領家の中村氏から分かれた黒谷氏がいるので、和銅の採掘や貨幣の鋳造にも関わっていたと推定されます。

 「大河原」の地名と大高山神社がある陸奥国柴田郡の豪族に橘姓の柴田氏があり、江戸幕府幕臣の柴田氏も姓で大河原源七左衛門尉有重の子孫であるといわれます。「丹党」の他に、甲賀五十三家藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏)や、「児玉党」にも「大河原」を称した武士がいました。「丹党」と「児玉党」の間には争いがあったようで、「児玉党」は、武蔵国児玉郡(本庄市)から起こり、藤原北家流・藤原伊周(ふじわらの これちか)の家司だった有道惟能を祖としています。

 秩父地方は古代から良質な馬の産地で、時季の父親の時経は、官職名が 右馬寮(うめりょう)の第三等官の右馬允(うまのじょう)です。大宝律令で左馬寮・右馬寮が設置され、馬の軍事的な重要性から従五位下ながら皇族である葛木王(後の橘諸兄、奈良麻呂の父)が、711年に令外官である馬寮監(めりょうげん)に任じられて左右馬寮を統括しています。平安時代後期以後は、馬寮の職は武士の憧れの官職の一つとされたようです。馬寮監は、平安時代以後は、近衛大将の兼任とされ、鎌倉時代中期以後は、藤原北家一門の西園寺家の世襲職となり、足利義満以後は、征夷大将軍が兼職するようになったようです。徳川家康は左馬寮御監に徳川家光は右馬寮御監に叙任されているようです。

 「謙信景光」の短刀の裏に刻まれている「キリーク」という梵字は(写真1右)、千手観音菩薩を表すと考えられます。茨城県稲敷市にある和珥氏を祖とする小野氏所縁の逢善寺や、飯能市の大河原四郎の菩提寺である金蔵寺などは、それぞれの手に目がある千手観音を本尊としています。一方、御物の太刀には、毘沙門天を表す「バイ」という梵字が刻まれています(写真1左)2)。四天王の一尊である武神・守護神とされ、毘沙門という表記は、ヴァイシュラヴァナを中国で音写したもので「よく聞く所の者」という意味にも解釈でき、多聞天(たもんてん)とも訳されています。密教系の寺院では、千手観音と毘沙門天・不動明王を一対で安置することも多く見られ、目と耳の神仏を組み合わせて、衆生を漏らさず救済するという意味があるのかもしれません。東京都港区の増上寺や、岐阜県の香林院に伝わる「木像広目天・多聞天立像」や、「聖徳太子孝養像及び二王子・二天像」にも同様な意味があるのかもしれません。

 丹党の中村氏と大河原氏は、承久の乱の後、播磨国三方荘に移住していますが、1329年の時基の銘がある太刀には、「広峯山御剣」という文字が刻まれ、兵庫県姫路市の広峰山山頂にある広峯神社に奉納されたものです2)。広峯神社は、素戔嗚尊・五十猛命を主祭神として祀り、全国にある牛頭天王の総本宮で、丹党は、「祇園信仰」ではなく「広峯信仰」だったと考えられます。この太刀には、長船の景光・景政を三方西に招いて造らせた旨の銘文があり、宍粟鉄(千草鉄)で造られたといわれています。広峯神社から流出後、1663年に江戸幕府の4代将軍家綱が日光東照宮に参拝したときに、下野国宇都宮藩の藩主奥平忠昌(徳川家康の曾孫)に与えられたといわれています。大二次大戦後は個人蔵となり、1954年に国宝となり、1984年に埼玉県が購入しています2)。

 播磨国三方西荘(兵庫県宍粟郡波賀町)に地頭として移り住んだ「丹党」の中村氏には、播磨守護赤松氏に属し、波賀城を長く居城とした一族がいました。赤松氏は、家紋に三つ巴があり、村上源氏の後裔で足利尊氏に味方し、室町幕府では京極氏・一色氏・山名氏と並ぶ四職家の1つとなって幕政に参画しています。中村氏の系図を見ると、播磨姫路藩初代藩主となった池田輝政に仕えた一族がいるようです。桓武平氏良文流坂東平氏にも中村党と呼ばれる中村氏の系統がありました。

 『中川文書』によると摂津国八部郡花熊村(兵庫県神戸市中央区花隈町)にあった、花隈城(はなくまじょう)の城主は「大河原具雅」で、荒木村重を匿ったことから、池田輝政の父の池田恒興などに攻められて天正8年(1580年)に落城しています。大河原具雅は、石見守(いわみのかみ)で、花隈城は摩耶山に近く、周辺に丹生神社や天王山古墳群があり、花隈城跡とマラケシュを結ぶラインは、瓊瓊杵命、丹生津姫命、月弓命を祀る坂本丹生神社の近くを通ります(図9)。これらのことから、大河原具雅は「丹党」嫡流中村氏の後裔と推定されます。

図9 花隈城跡とマラケシュを結ぶラインと坂本丹生神社、摩耶山、丹生神社、天王山古墳群

 具雅は城兵の助命を嘆願して自刃したとされ、山背大兄王の最後と似たところがあるように思われます。清和源氏流中川清秀は、信長に直談判をして具雅の妻子の命を救い、その後、中川家が西軍の大友を支援した疑いをかけられた際の弁明の使者に、大河原久作具経という人物がいたようです。具雅と具経が親子とすると具経は恩を返したと考えられ、二人は武士道を実践した人物だったと思われます。

 兵庫県丹波市柏原町にある石見神社の祭神である谷垣石見守は、宝永年間(1704-1711 年)頃、隣村との領地争いを囲碁勝負での解決を図ったと伝えられています。これは、オリンピック精神(オリンピズム)と通じるところがあるように思われます。谷垣氏は特に兵庫県豊岡市に多く分布していますが、豊岡市には須佐之男命と推定される木の神「久久能智神」(くくのちのかみ)を祀る久久比神社(くくひじんじゃ)があります。久久比神社、岩見神社、丹生神社(神戸市灘区)は直線上にあり、丹生氏と推定される石見守の大河原具雅の花隈城も近くにあります(図10)。谷垣石見守は丹生氏と関係があると思われます。

図10 花隈城跡、摩耶山、丹生神社、天王山古墳群、石見神社、久久比神社

 岡山大学の池田文庫に、「元陪臣.旧主:家老・土倉.書入:大河原先祖.中村次郎左衛門忰・中村弥右衛門.拾六歳ニ而於因州土倉家え召抱新知百石遣ス.以後代々重ク仕フ.」とあるので、備前岡山藩の家老であった土倉家には、武蔵七党の「丹党」の中村氏や大河原氏がいたようです。『周匝青木家古文書』によると、天保四年(1833年)、土倉家(佐伯藩)の目付役大河原源左衛門の次男又治郎が青木家の養子となって青木又治郎と名乗っています。元は浅井家(物部姓守屋流)の家臣だった土倉家の治めた磐梨郡(いわなしぐん)は、古くから和気氏の勢力下にあった地域で、佐伯藩の佐伯陣屋は和気郡和気町にありました。戦国時代頃までは、和気氏は、佐伯氏・伴(大伴)氏・百済王氏とともに、天皇即位の際などに氏爵を受ける氏族とされていたようです。『新撰姓氏録』によると和泉国の「和気公」は「倭建尊之後也」と記されています。

 武蔵丹党の中村氏大河原氏には、播磨国三方西から千種に移り、さらに美作に移った一族がいたようです。波賀八幡神社には、大河原備中守之清が天文9年(1540年)に奉納した長船派の次郎左衛門尉勝光の銘のある太刀が残っています。地元では、大河原備中守之清は、千草城主だったといわれているようです。大河原氏は美作に葛下城を築いて本拠としています。『作陽誌』には葛下城について「葛下城 山城に在り。麓より山上に至る五町半。初め城主大河原大膳大夫、後中村大炊介頼宗、事跡詳らかならず。・・」とあります。津山市にある岩屋城(いわやじょう)は、守護赤松氏譜代の小瀬・中村・大河原・後藤氏などが交代で城代となっています。岩屋城跡は、 熊山遺跡とマラケシュを結ぶラインの近くにあり、ラインの近くには、大山妻木晩田遺跡があります(図11)。

図11 熊山遺跡とマラケシュを結ぶラインと岩屋城跡、大山、妻木晩田遺跡

 中村氏と大河原氏は、赤松政則・義村のとき美作国守護代となり、赤松義村と浦上村宗との内部抗争で、中村則久が紀氏の後裔を称する浦上氏に味方し、大河原氏が赤松氏に味方したため同族で争いをしています。美作の大河原氏坂東八平氏の庶流の三浦氏から養子を迎えたようです。応仁の乱の後、美作の大河原氏は、備前岡山城主だった宇喜多秀家に仕え、関ヶ原の戦いの後に瀬戸内市邑久町山手に土着したようです。

文献

1)福島正義 1990 「武蔵武士」 さきたま出版会
2)田代 脩 2009 「武蔵武士と戦乱の時代」 さきたま出版会
3)井上要 1991 「秩父丹党考」 埼玉新聞社
4)丹生廣良 1977 「丹生神社と丹生氏の研究」 きのくに古代史研究会