本能寺の変 1582 光秀の苦悩 2 16 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀の苦悩 2 志向の相違
世界は、大航海時代であった。
当時、イエズス会は、中国、すなわち明(1368~1644)への
布教活動を積極的に拡大しようとしていた。
背景には、ポルトガルの野望があった。
覇権を狙っていたのである。
これについては、後述する。
信長の目は、海外を見ていた。
信長は、フロイスから、大きな刺激を受けた。
激動する世界の情勢等々。
様々な知識を得たのだろう。
そして、覚醒した。
「明」
信長の思いは、東シナ海の向こう側にあった。
信長の「さらなる夢」。
フロイスは、このことを確りと書き留めている。
一つは、「イエズス会日本年報」にある。
天正十年十月二十日。
フロイスは、信長の死について、イエズス会総会長へ報告した。
次は、その中の一文である。
信長は自ら行くことに決し、都に来り、
同所より堺に赴くこととし、
毛利を征服して、
日本六十六ヵ国の領主となった後、
一大艦隊を編成して
シナを征服し、
諸国をその子達に分ち与へんと計画した。
もう一つは、『日本史』に。
こちらの方は、その後年に書かれたものである。
信長は、事実行なわれたように、都に赴くことを決め、
同所から堺に前進し、
毛利を平定し、
日本六十六ヵ国の絶対君主になった暁には、
一大艦隊を編成して、
シナを武力で征服し、
諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった。
だが、結局、本能寺の変により、それは潰えた。
⇒ 次回へつづく
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