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本能寺の変 1582 上総介信長 6 215 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 6 道三の最期 

戦いは、長良川河畔で始まった。

 同二十日、朝。
 多くの美濃衆が、道三に対して、反感を持っていた。
 道三は、国衆に見限られた。
 そのことが背景にあった。
 結果、道三方に、兵は集まらず。
 義龍方の兵数が大きく膨らんでいた。
 戦う前に、すでに、勝敗は、決まっていたのである。
 
  四月廿日辰の剋(=8時頃)、
  戌亥(いぬい=北西)へ向つて新九郎義龍人数を出だし侯。
  道三も鶴山をおり下り、奈加良川(長良川)端まで人数を出だされ侯。

 道三勢、奮戦すれども、・・・・・。
 
  一番合戦に、竹腰道塵、六百計り真丸(まんまる)になりて、
  中の渡りを打ち越し、
  山城道三の幡元(旗本)へ切りかゝり、散々に入りみだれ相戦ふ。

 
  終に、竹腰道塵、合戦に切り負け、
  山城道三、竹腰を討ちとり、床木に腰を懸け、
  ほろをゆすり満足侯ところ、

  二番鑓に、新九郎義龍、多人数、どッと川を越し、
  互ひに人数立て備へ侯。
 
  義龍備への中より武者一騎、長屋甚右衛門と云う者進み懸かる。
  又、山城人数の内より柴田角内と云ふ者、唯一騎進み出で、
  長屋に渡し合ひ、真中にて相戦ひ、勝負を決し、
  柴田角内、晴れがましき高名なり。
 
  双方よりかゝり合ひ、入り乱れ、火花をちらし相戦ひ、
  志の木(しのぎ=鎬)をけづ(削)り、鍔(つば)をわり、
  爰(ここ)かしこにて思ひ々々の働きあり、
                          (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく



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