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本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 4 234 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の甲斐侵攻 4 勝頼の首 

信長は、飯田で勝頼の首を晒した。

 同三月十五日。
 浪合を出発。
 行軍、凡そ六里半(26km)。
 飯田に、到着した。
 ここで、勝頼の首を晒す。
 
  十五日、午の刻より雨つよく降り、
  其の日、飯田に御陣を懸けさせられ、
  四郎父子の頸、飯田に懸け置かれ、上下見物仕り侯。
 

信長は、武田の滅亡を世に知らしめた。

 敗れた者、斯くの如し。
 「無念」
 その形相(ぎょうそう)。
 光秀の、脳裏にこびり付いた。

 同十六日。
 信長は、飯田に滞在した。
 
  十六日、御逗留。

武田信豊の最期。

 同じ頃。
 武田の家臣下曽根浄喜が武田信豊を殺害した。
 裏切りである。 
 信豊は、信玄の弟典厩信繁の忘れ形見。
 勝頼の従弟。
 
  信州さくの郡小諸に、下曾根覚雲軒楯籠り侯。
 
  武田典厩、下そねを憑み、纔(わずか)廿騎ばかりにて罷り越され候。
  肯(うけこい)申し、二の丸まで呼び入れ、無情に心を替へ、取巻き、
  既に、家に火を懸け侯。
 
  典厩が若衆に、朝比奈弥四郎とて候ひキ。
  今度、討死を究め(覚悟し)、上原(長野県茅野市茅野上原)在陣の時、
  諏訪の要明寺の長老を道師に憑(たの)み、
  戒(かい=仏教の戒律)を保ち、道号をつけ侯て頸に懸け、
  最後に切つて廻り、典厩を介錯し、追腹仕り、
  名誉、是非なき題目なり。

信豊の首。

 信長、検分。
 
  典厩を憑(たの)みし姪女(めい)聟、百井と申す仁、
  是れも一所に腹を仕る。
 
  侍分十一人生害させ、典厩の頸、御忠節として、下曾根持ち来たり、
  進上仕り侯。
  則ち、長谷川与次(丹波守)もたせ参る。
 
  三月十六日、飯田御逗留の時、典厩の首、信長公へ御目に懸けられ侯。
                          (『信長公記』)

 

          ⇒ 次回へつづく




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