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本能寺の変 1582 信長と「敦盛」 9 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長と「敦盛」 

「人間五十年」の意味。

 そもそも、「敦盛」の主人公は熊谷次郎直実である。
 直実は、一ノ谷の合戦(1184)で平敦盛を討ち取った。
 我が子と同じ年頃の若武者だったという。
 後に、その菩提心から、出家して高野山へ上った。
 この一節の前後は、この世の無常と直実の心情を表現する場面である。
 
 したがって、本来の意味は次のようになる。

   人の世の五十年は、
   下天(天上界の最下位)のわずか一日にすぎない、
   夢・まぼろしの如く、短く、儚いものである、
   この世に生を享け、死なぬ者など一人もいない。

信長は、戦国時代の後半を生きた。

 ところが、やがて、この部分だけが、前後の流れから切り離されて、
 独り歩きするようになった。
 昔の人は、短命だった。
 早死する人が多かった。
 人々の大半が、直感的に、「人の一生は五十年」をイメージした。
 その方が、現実にマッチしたからである。
 そして、年を経るごとに、その傾向が色濃くなった 

 信長の生きた時代。
 すなわち、天文三年(1534)から、弘治・永禄・元亀を経て、天正十年
 (1582)までの間は、戦国時代の後半に当たる。
 直実の時代から、350~400年ぐらい後の世である。
 とすれば、なおさらである。
  
 当時の人々は、次のように解釈した。
 自分たちの人生をダブらせた。
   
   人の一生は五十年、
   下天のわずか一日にすぎない、
   夢・まぼろしの如く、短く、儚いものである、
   この世に生を享け、死なぬ者など一人もいない。

 戦国乱世。
 油断すれば、命を失う。
 過酷な時代だった。

          ⇒ 次回へつづく


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