見出し画像

本能寺の変 1582 光秀という男 2 97 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀という男 2 「立入左京亮入道隆佐記」 

「立入左京亮入道隆佐記」

 以下は、立入宗継の日記である(抜粋)。
 光秀の素性を知る上で、最も重要な史料の一つ。
 是非とも、じっくりと、目を通していただきたい。

前代未聞の大将なり。

 時は、天正七年1579、六月十日。
 場面は、丹波八上城を攻め落とした光秀が、捕らえた城主波多野秀治を、
 安土へ護送する途中、京を通過した時の模様である。 
 
  丹波国、惟任日向守(光秀)、
  御朱印を以って、一国下行(げぎょう=下賜)せらる、

  時に理運、申し付けられ候、
  前代未聞の大将なり、
  坂本城主、志賀郡主なり、

立入宗継は、歴史の証人。

 宗継は、この行列を見ていた。
 光秀に対して、感嘆の声を上げている。
 興奮状態が伝わって来る。 

  多喜郡高城、波田野兄弟、
  扱いにて送らるゝの刻、路地に於いてからめ取り、
  安土へ馬上にからみつけ、つゝをさしほだしをうち、
  はたの、おとゝい(一昨日)、はたもの(磔)に上せられ候、

  前代未聞なり、
  天正七年六月十日、京都を通るなり、
                  (「立入左京亮入道隆佐記」1/2)


          ⇒ 次回へつづく 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?