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「ダブルスタンダード」が拓く俳句の道―現代俳句協会青年部勉強会〈「新興俳句」の現在と未来〉と筑紫磐井著『戦後俳句史』

「俳壇無風」時代の「新興俳句」論争


昨年十二月十七日、現代俳句協会青年部勉強会〈「新興俳句」の現在と未来〉の司会を務める機会を頂いた。事前に公表された勉強会の概要は次のようであった。

「馬醉木」100周年記念号では水原秋櫻子が「新興俳句」の範疇に含まれるのかという問いについて、複数の評者が言及、さまざまな意見が寄せられた。現代俳句協会青年部が2016年に出版した『新興俳句アンソロジー』に、秋櫻子、加藤楸邨、石田波郷などの句が収録されていることに対して賛否が分かれている。「水原秋櫻子は新興俳句か」という問いを出発点とし、異なる俳句史観を越えて、新興俳句が現在や未来の俳句にどのように繋がるのかということを、論客を招いて議論したい。

登壇者:
今井聖(「街」主宰、俳人協会理事)
筑紫磐井(「豈」発行人、現代俳句協会副会長)
鈴木光影(司会、現代俳句協会青年部委員)


なお、勉強会の企画立案と運営には青年部部長の黒岩徳将と、同じく委員の加藤右馬が関わった。

発端となった『新興俳句アンソロジー』(ふらんす堂)の序で、当時の現代俳句協会青年部部長の神野紗希氏は「……このアンソロジーでは、新興俳句運動に何らかのかたちで関わり、影響を受けた俳人を、より広く取り上げることとした。……各俳人を新興俳句という文脈に置くことで、新興俳句が俳句界に及ぼした影響をよりくきやかに捉えることができると考えた」と記している。「俳壇無風」と言われる現代で、若手俳人が企画した一書が、ベテラン俳人を巻き込んだ論点を提示できたことはひとつの成果であろうと思う。

登壇者の二人を大雑把に色分けすれば次のようになる。今井聖氏は「秋櫻子は新興俳句ではない」という立場、そして句作に軸足を置いた俳人。筑紫磐井氏は「秋櫻子は新興俳句である」という立場、評論・研究に軸足を置いた俳人。真逆にいるような登壇者を招いた。ちなみに司会の私は『新興俳句アンソロジー』発刊時は協会員ではなくこの本の企画にも関わっていないが、二者の対立点の整理と、俳句の未来に向けて二者が共有できる点があるとすればどこかを見いだせればという思いで当日に臨んだ。

なお登壇者の二人の共通点は、今井氏は加藤楸邨(「寒雷」)の弟子、筑紫氏は能村登四郎林翔(「沖」)の弟子で、楸邨・登四郎・翔は「馬醉木」出身。楸邨は登四郎・翔から見て兄弟子。つまり今井・筑紫両氏の師系を辿れば秋櫻子がいる。守旧派である高浜虚子の「ホトトギス」を離脱した秋櫻子の「馬醉木」には、他にも秋櫻子の盟友・山口誓子、〈頭の中で白い夏野となつてゐる〉の句で新興俳句の扉を開いた高屋窓秋、のちに「人間探求派」と呼ばれる石田波郷など、多彩な才能が集った。その末端にいるのが今井氏と筑紫氏といえる。聞けば、二人は若い頃超結社句会を共にした、長い付き合いとのことだ。

個人的俳句観と歴史的事実


勉強会の前半はテーマに対して各々の基調発表、後半は討論と「俳句の未来の方向性を示していると思われる三句選」を挙げてもらった。まず基調発表での二者の主張を要約してみる。

今井氏は「秋櫻子は新興俳句か否か」や「新興俳句をいかに定義するか」には実はあまり興味はなく、「新興俳句」の価値に批判を投げかけた。新興俳句批判の根拠は大きく分けて二つある。一つは、新興俳句は当時流行していた自由詩モダニズム運動の模倣・偽装にすぎない。もう一つは、戦後、新興俳句の流れをくむ高柳重信が〈加藤楸邨の「寒雷」は本来なら新興俳句側に来るはずであった有為な青年俳人を吸収して伸長した〉と言って楸邨や「寒雷」メンバーを理不尽に攻撃した。楸邨の弟子として許せない。この大きく二つの理由によって価値のない、また評価できない新興俳句は、次の「僕にとっての俳句の正系」に入らない。

A.芭蕉→蕪村→子規→虚子→素十→誓子
(「もの」への収斂)
B.芭蕉→楸邨(一回性の感受)

なおAとBを統合した「一回性の把握」こそが今井氏個人の俳句観において最重要のものである。

さて、もう一方の筑紫氏は、「秋櫻子は新興俳句か」の問いに直接答える。まず新興俳句の「新興」とは何だったか。一九二三年の関東大震災以後、「復興」「再興」「新興」という言葉が生まれ、社会的システムの再建築・創造の意味で「新興」が流行語となった。「新興満州国」「新興カフェー」などと冠詞として使われ、文学の世界にもそれが流入してきた。そして水原秋櫻子自身が「自分の俳句は新興俳句ではないと、二三遍書いたことがあるのだけれど、大勢といふものは恐ろしいもので、そんなことを聞いてくれる人もなく、嫌でも応でも新興俳句と言ふことにされてしまった。」(「あの頃」「俳句」31年11月号)と証言しているように、当初「新興俳句」=「馬醉木」であった。「戦争無季俳句」や「プロレタリア俳句」=「新興俳句」というのが今の一般的なイメージとしてあるが、それは「新・新興俳句」とでもいうべきものである。歴史的事実として、最初の新興俳句は「馬醉木」であった。つまり秋櫻子は新興俳句であった。そして新興俳句は時代を追って変化していった。筑紫氏曰く「新興俳句は鵺のように色々形を変えている」。

要点のみだが、ここまでが勉強会の前半である。今井氏と筑紫氏が発表した内容は、表面的にはかみ合っていないように見える。今井氏は個人的俳句観の話をしているが、筑紫氏は俳句の歴史的事実の検証について語っている。しかし後半に向けて、両者の異なる立場・論点・個性ゆえに対話をする面白さがあり、そこから共有できるものを見出したいという展望が持てた。同質的な内輪のお話し合いにはない、違いを認めつつ信頼する好敵手との議論への期待感があった。

ダブルスタンダードという「誠実」さ


後半も含めて私が二人の発言で注目したのは「ダブルスタンダード」ということであった。キーになる俳人は、山口誓子加藤楸邨である。

筑紫氏の基調講演の中で山口誓子の第一句集『凍港』(昭和七年五月刊)への言及があった。誓子は『凍港』のあとがきに、この句集は虚子先生のお蔭だ、というようなことを書いている。しかし、句集刊行と同じ時期、「俳句月刊」昭和七年五月号に〈句集「凍港」のことども〉と題して文章を書いており、その中で、自分は新興俳句だ、というようなことを言っている。筑紫氏は、良いか悪いかは別として、誓子はダブルスタンダード、誓子の自己評価として伝統と新興を併せ持っていた句集であった、と評した。

一方の今井氏からは以下の発言があった。昭和十五年の評論「現代俳句の中心問題」の中で加藤楸邨は次のようなことを述べている。新しく興ってくる新興精神を無条件で受け入れてはいけないけれど、同時に注目しなくてはならない。当時の現代俳句は「情緒万能」(花鳥諷詠)「知性耽溺」(新興俳句)という二つの〝偏向〟に支配されていた、と楸邨は論じていた。自身の師である楸邨は、作家的な立場であることもあり、これら二つの立場を思考が〝行ったり来たり〟する。

今井氏がその師である楸邨に対して使った「行ったり来たり」は、筑紫氏が誓子を評した「ダブルスタンダード」に近いのではないだろうか。

ダブルスタンダード、略してダブスタは、最近は主に政治的な文脈で用いられ、自分に不都合な場合は意見を変える人物に対して否定的な意味合いで使われることが多い。

俳句における「ダブルスタンダード」はいけないことだろうか。むしろダブルスタンダードこそが新しい俳句の道を拓くのではないか。

ひとりの人間は多面的な存在であり、ひとりの俳人においても俳句観が遍歴によって変わったり、複数のそれを共存させていたり、その間を揺れ動くのが自然だと思う。なぜなら、俳句は伝統的な文芸であるから。伝統とは、常にその時々の新しさに晒され、大切な部分は守りつつ、少しずつ変化を加えながら前進していくものであるはずだ。

反対に、一つの価値観に固執しこれしかないといって「偏向」すると、グループ内で同質性を強化し、自分と異なる意見を持つ者やときには身内までをも排除・攻撃してしまう。

もちろん、自らの保身のためにする不誠実なダブルスタンダードは批判されるべきだ。が、誓子や楸邨のような俳句の実作者としても後世に残る仕事をやってのけた俳人には、伝統と新興の間に身を置き思索しつつ実践する、「誠実」なダブルスタンダードがあったように思われてならない。

筑紫磐井著『戦後俳句史』


ここで少し話が飛ぶが、勉強会終了後の昨年末、筑紫磐井氏が新刊『戦後俳句史 nouveau 1945-2023―三協会統合論』(ウエップ)を刊行した。「はじめに」で、〈通史は全史ではなくすべてに精緻である必要はない、しかし大きな事件の因果関係が明白であることが必要だ〉と歴史を記述するその方法論を述べ、さらに〈本書の中心は「社会性俳句史」である〉と通史を語り始める者としての視座を明らかにする。

本書で立証される俳句史観の一つとして、第1部第1章第6節では、〈ここに「第二芸術」→人間探求派(現代俳句)→社会性俳句の図式が生まれる〉と述べられている。逆に言えば、この三つの戦後俳句のキーワードは俳句史年表的にこの順番で記載されてきたが、その間に有機的な「因果関係」があるとは理解されてこなかった。本書では戦後俳句の出発点を桑原武夫の「第二芸術」に置き、それがその後の流れに影響を及ぼしていることを歴史的資料を積み重ね論じられている。伝統派の文芸評論家・山本健吉と「第二芸術」の関係についても触れられており、前衛から伝統まで目の行き届いた一書となっている。

能村登四郎の「社会性俳句戦略」


本書の中で特に私の興味を引いたのが、能村登四郎に関する記述であった。前述のとおり筑紫氏は登四郎門である。能村登四郎が大野林火編集長時代の角川「俳句」(昭和三十年十月)に発表した「合掌部落」三十五句は初期の社会性俳句を代表する作品である。ところが、筑紫氏が、昭和二十九年から三十五年までの「角川年鑑」自選五句を他の社会性俳句作家と合わせて列挙したところ、ここに登四郎は「自選俳句には社会性俳句でもなく、(略)教師俳句・境涯俳句・紀行俳句という第三の分類の作品がもっぱら選ばれている。当時の登四郎のダブルスタンダード、トリプルスタンダード的な立ち位置を見ることが出来る」という。また筑紫氏は当時の登四郎の作品発表先を分析し、〈「馬酔木」に発表した作品は旅吟、「俳句」や「俳句研究」に発表した作品は社会性俳句であることがわかる〉と言い、その「使い分け」を指摘する。

さらに筑紫氏は第1部第3章第3節「新しい伝統俳句の誕生」の冒頭、登四郎は「社会性俳句から(世の常言われている)「伝統俳句への展開の唯一の例である」と論ずる。登四郎の代表句〈火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ〉などの「心象俳句」への展開である。登四郎自身、『俳句実作入門』(昭和四十九年)で、「……伝統派と呼ばれる中堅作家の動きとして心象風景と呼ばれる作品が見られてきました」として、飯田龍太森澄雄、そして自らの句を例示している。 

社会性俳句と伝統俳句を共に実作し、ダブルスタンダードを生きることで見えてくる境地、登四郎にとってそれが「心象俳句」であった。筑紫磐井氏が前掲書の副題を「三協会統合論」(三協会とは、現代俳句協会・俳人協会・日本伝統俳句協会)としたのも、これからの時代に求められるのはそのような複数の価値観を同時に認め合う態度ということではないだろうか。

しかしそれが何でもありの「相対主義」に陥らないためには、「新興俳句」への現在的な評価のような論点に対し、青年部勉強会で交わされたような率直かつ信頼をもった対話の場を醸成し続けていくことが肝要である。

最後に、後半で発表された「俳句の未来の方向性を示していると思われる三句選」のうち、一句ずつ挙げる。(筑紫磐井選・今井聖選の順)

ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ
                 なかはられいこ
谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな    金子兜太


文芸誌「コールサック」117号(2024年3月1日刊)より転載


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