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平敷武蕉句集『島中の修羅』を語る

2022年10月29日 沖縄10名の合同出版記念の集い 那覇市八汐荘にて

鈴木光影です。私はこの平敷武蕉さんの句集『島中の修羅』の巻末解説も書かせていただきましたが、今日はその中から五句を選んでお話しをさせていただきます。

太陽からイデオロギーが消えていく

この句は、全世界的な脱イデオロギー状態が描かれています。私は今三十六歳なのですが、同世代を眺めても、少しでも政治的な事象にはタッチしたくない、という人が大半です。また本土で沖縄の基地問題についても自分ごととして考えている人は少ないです。残念ながら、無思考、無関心、無責任が、蔓延していると思います。
それで、この句の「太陽のイデオロギー」とは何でしょうか?太陽の光は、地球の生物にとって必要不可欠なものですね。そういう意味で、我々人間が人間として生きていくために必要なもの、それを私は、「個人が自分の頭で思考すること」なのではないかと思います。
この句のイデオロギーとは、特定の主義主張ではなく、いくつかの個別的イデオロギーやその歴史的な意味を比較検討して、社会や世界を良くしていく新しい思想を生み出していく力のようなものではないかと私は思っています。
その力がいま弱くなっています。その状況をどう乗り越えていくかというのは大変な問題ですが、残り、平敷さんの四句を読むことで、それにチャレンジしてみたいと思います。

ねえさん僕はバンドマンを辞めました

平敷さん、バンドマンになりたかったんですね。意外な気もしますが、ロックミュージックのような反骨精神は、平敷さんの文学に確かに息づいていると思います。
ところでこの句は、「俳句らしくない俳句」ですね。イデオロギーの句もそうですが、平敷さんは季語の入っていない「無季俳句」もよく作られています。本土の伝統俳句は基本的に季語頼りです。俳句は短いがゆえに共感力や象徴性の強い「季語」に頼りがちです。なので、季語に頼らない「無季俳句」はその分難しいのです。
この句は、読んでいただいたら分かる通り、とても個人的な体験ですよね。しかしそれゆえに、この感覚は普遍性を持っていると思います。若い時の、夢と挫折、そしてそれを受け入れてそっと聴いてくれる存在が近くにいる。平敷さんにとってはそれがバンドとお姉さんでしたが、読者にとってはまた他のもの、人を当てはめていいと思います。
五七五の定型から外れた、「ねえさん」という口語調だからこそ、挫折感と信頼感の混ざったこのいいしれぬ感情が表現できたのだと思います。

戦争を語らぬ父の手指がない

戦争体験者であるお父様の「戦争を語れなさ」から、沖縄戦の壮絶さが伝わってきます。
お父様の無言、そして失われた指から平敷さんの俳句の想像力は生まれています。
俳句は短歌から派生していますので、五七五七七の七七が欠落した文学だということもできると思います。だから俳句はそれ自体で述べすぎずに、七七の分は読者の想像力に委ねるのです。父と戦争をテーマとしたこの句は、俳句そのものが持つ欠落性とも響き合っています。

すみれ一つ愛せずにいて銀河詠う

沖縄にはリュウキュウコスミレという土地の植物があると聞いています。そのような、身近な、土地の小さな存在を題材にするのは、本土の俳句にとっても普通のことです。しかしこの句は、そのスミレを愛することができていないという嘆きが詠まれています。ここでスミレは、日本本土による差別構造を抱えた「沖縄の日常」とも言い換えられるのではないでしょうか。
「銀河詠う」とは、もちろん言葉そのままとして「夜空の天の川」の意味ととってもいいのですが、遠く遙かな沖縄の理想の姿と私は読んでみたいと思います。自分の今の日常と、理想は、スミレと銀河ほどかけ離れている。しかしそこには確かに通路はあるのだ、スミレ一つを愛そうとするところから世界は良くなっていくんだと言われている気もしました。

島中の修羅浴びて降る蟬時雨

最後、タイトルになった句です。
沖縄戦の犠牲、歴史的現在的な沖縄差別、そこから引き起こされる様々な悲劇が混然となって「島中の修羅」となっています。
平敷さんは「無い手指」や「スミレ」を見るように、また「ねえさん」に挫折体験を告げるようにミクロの視点から、沖縄の地の「島中の修羅」を吸い上げて感受します。それを一旦天上の「銀河」の方へ、想像力を飛ばします。そしてその「修羅」を、真夏の激しい蟬時雨と一緒に、地上に降り注がせます。それを浴びるのは、平敷さん自身でもあり、沖縄の人々でもあり、私のような本土の人々でもあると思います。地、天、地という、行って戻ってくる垂直的な往還性が、この句の大きな魅力だと思っています。
平敷さんの俳句には、イデオロギーの力の弱くなった太陽に新しい熱を与えてくれるような、個人の足下の小さな日常から立ち上がり、遥か遠くの社会や未来へと届く想像力がみなぎっていると思います。未読の方は、ぜひお読みいただければと思います。また、本土の俳句を脱構築してくれる沖縄の俳句に、これからも注目していきたいと思います。

鈴木光影・清新な俳句と評
                      平敷 武蕉

私の句集『島中の修羅』を解説して下さった鈴木光影氏は、一九八六生まれの三十代。新進気鋭の俳人であり、評者である。今年の五月に第一句集『青水草』を出版したばかり。
タイトルの「青水草」は、《少年の涙痕に生ふ青水草》から採ったのであろう。心が痛むときこそ、真実を掴むときなのだ、としているわけで、眩しいほどの決意と若々しさにあふれている。学生時代に、「理由もなくかなしかったとききみは愛することを知るのだ」という詩を読んで、痛く感動したことがあるが、それに似た感情を味わったことである。
《鳴らすたび三線夏の海を呼ぶ》も、文句なしにいい句だ。ここでの「三線」は三味線ではなく、沖縄の蛇皮線。砂浜で青年たちが三線を掻き鳴らして海を呼ぶ遊楽の光景が思い浮かぶ。私の第一句集『島中の修羅』を解説するにあたっても、句集だけでなく、私の評論集なども読み込んで周到に評してくださり、感謝するばかりである。


「コールサック112号」より転載

コールサック112号

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