主観的な言葉を使って話をする人はたいがい優しい

前々から思っていたのですが、

主観的な言葉を使って話をする人ってすごく優しいよね〜。

何か対話をするとき、「客観的に聞こえる言葉」を使う方が人はハッ!となって動くし伝えるのには容易くて、その言葉は「事実」として伝えられる効力を持っているはずで(ネットの多少理不尽な批判とかってさも客観的みたいな言葉遣い多いよね、、、)でもそれを知っていながら簡単に相手を納得させない、考えてもらうアソビも含めて

僕は、私は「こういうやり方が好きなんだ」「こういうやり方は苦手なんだ」とあえて伝える人は美しなと思います。

みんなそれぞれに正義があって、「正しい」「正しくない」「良い」「悪い」があるにもかかわらず、「好き」「嫌い」と言葉を変換して使ってくれる優しさよ。


もちろんもちろん色々なパターンがあるから一概には言えないのだけれど、客観的な言葉の方が良く響く場合もいっぱいあるとは思うのだけれど、「好きだ」「嫌いだ」で語ってくれる人は私は好きだし凄いなと思います。

その言葉を使う事自体に客観性を感じます。

けれど、そういう人が「好き嫌いでしかものを考えられないアホ」と思われたり、「客観的な言葉を使えない」と勘違いされる瞬間に少なからず立ち会うと、悲しいなあと思います。

きっとそのあえての主観性には優しさがあって、相手を全否定しないための逃げ道のある、とっても優しい心遣いだと思うんだよね〜。(よくネットで見る男女のケンカで女は主観的だって書いてある事多いけれど、それあなたを否定し過ぎない為の優しさじゃない?と思うパターン多々)

「事実」である事にあぐらをかかず、「自分の心」と対話して、相手に伝えるのは素敵!!!

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