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掌編小説「エンド・ロール」

 最近、わたしはネットフリックスに加入した。定額で映画やドラマが見放題になったこのご時世、わざわざレンタルビデオ店に行って作品を借りることは少ない。昔は、テレビで放映されたドラマや映画をディスクに録画していた。新聞のテレビ欄を切り抜いてケースに入れるのが好きだった。音楽もそうで、ストリーミングで聴き放題の今と違い、レンタルしてウォークマンなどに落として聴いていた。
 ツイッターやラインみたいに手軽な共有ツールが少なかったから、どのドラマが面白かったとか、あの映画が良かったとか、自分がこの音楽が好きだなんて、簡単に分かってもらえることじゃなかった。直接CDやDVDを貸し借りするのが当たり前だった。でも今は、リンクをコピーして貼って送信、それでおしまい。苦労していた分、なんだかちょっと味気ない気もする。
 便利な世の中になったと思う。その利便性にわたしたちも適応しながら、段々となじんでいく。かさばらないから幅も取らないし、楽だ。でも、積み上げたディスクの山にも価値はあるはずで、それはいつの時代も変わらないはずだ。
 ネットフリックスで作品を漁っていると、偶然、昔彼と観た洋画を見つけた。
 思わず「あー」と間延びした声がこぼれる。かゆくもないのに目をこすってみたりして、ばつの悪い感情をどこかへ追いやろうとする自分がいた。きっと、それが初めて二人で観た映画だったからだろう。
 学生時代のわたしたちは、日替わりで国内外の映画を上映している大学近くのミニシアターを利用していた。互いに熱狂的な映画好きというわけでもなかったけれど、よくCDやDVDを貸し借りしていた。
 そんな彼とも、大学卒業を機に別れた。丸四年間続いた関係だった。今年で二十四を迎えるわたしにとって、一番長い付き合いだった。
 思い出は、きちんと別の媒体を通して、自分のいる場所とは違うところで勝手に生き続けている。一人歩きしていた感情が、ふとしたきっかけでこんな風に戻ってくることもある。嫌な堂々巡りだ。
 複雑な郷愁にかられながら、わたしはその映画を再生した。感傷的になると、ついどこまでも沈みたくなってしまう。性懲りのないわたしの癖だった。
 もう内容なんて断片的にしか思い出せないし、どんなストーリーなのかも曖昧で、気分は初めて観る時と同じだった。その分、余計な先入観を持たずに済んだ。
 劇的な衝撃も、情熱的な恋も、息もつかせぬ展開もなく、ただ単調に、平坦を刻み続ける内容は実に退屈だった。でも、場面ひとつひとつに丁寧な拘りを感じる。その中に、あの頃過ごしたわたしと彼の面影を重ねるみたいにして、つい画面に視線を合わせてしまう。特別なことなんて何も起こらない。むしろそこに惹かれるようで、何も起こらない安心感みたいな時間をしばらく噛み締めていた。
 やがて映画はエンドロールを迎える。この時間が好きだ。まどろみの中にいて、もうすぐ朝を迎えるような名残惜しさが心地良い。この後も物語が続けばいいのにと、つい叶わぬ願いを抱いてしまう。
 エンドロールも終わり、完全にパソコンの画面が真っ暗になる。妙に風通しの良い余韻があとを引く。わたしはスマートフォンでツイッターを開き、映画の感想をツイートする。しばらくすると通知が来た。〇〇さんがあなたのツイートをいいねしました。それは顔も全然知らない、どこの誰なのかも分からない人物だ。今の時代、そんな人とだって簡単に繋がりを持てる。何もかもが簡単すぎて、逆に笑えてきた。
「あー」
 宙に発した声が目の前で墜落するのが見えるようだった。きっとストレスだ。こんな気持ちになるのは、ストレスのせいに違いない。
 明日も仕事だ。早く寝よう。
 わたしはパソコンを閉じて布団に潜り込み、目を瞑る。瞼の裏では、先ほどまで流れていたエンドロールの文字が残像のようにちらついている。はたして明日は、気持ちの良い朝を迎えられるだろうか。完全に冴えてしまった頭では、そんなこと分かるはずもなかった。

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