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ハタチの恋


ハナコがシイナくんに出会ったのは還暦を過ぎてからだ。どこかで通りすがりに耳にした歌が、それはとてもサラッと聴けた歌だったが、そのどこか懐かしいようなメロディと歌声が、なぜかハナコの耳に残った。
何日か経ってふと思い出し、確か女性が別れ際に万年筆をわざと置いていくような歌詞だったと調べてみたら、その万年筆の歌を歌っていたのがシイナくんだった。
ハナコはそれまで、街なかに流れている歌など一度も気に留めたことがなかったのだが、その歌はどこか心に暖かみを感じる声と歌い方だったと、ハナコは後に、その運命の出会いを何度も何度も思い返しては喜びを噛みしめた。

シイナくんはインターネットで生放送をしている。若者に人気のアイドルグループ「サムライZ」のメンバーで、担当カラーは黄色。「サムライZ」は、声を武器にインターネット上で活動する5人組。CDを出したりライブをしたりと、リアルでも多彩な活動を行っている。
メンバー5人の専門分野は、歌やゲーム実況など様々だが、シイナくんが得意なのは歌と「セリフ」だ。

シイナくんに出会って、ハナコは「セリフ」というものを生まれて初めて聴いた。
それはハナコのこれまでの常識から完全に逸脱していた。ハナコは、このような破廉恥な行為が年齢制限もなく平然と配信されていることに驚き、戸惑い、しばらく固まってしまい動けなかった。
そんなハナコの心と体を、シイナくんの声が溶かしていった。全力でセリフをしているシイナくんの声に、いつしかハナコはセリフの世界に取り込まれていった。セリフが終わるころには、セリフを頑なに拒んでいたはずのハナコの心と体は、まるで春風に包まれたかのように柔らかくほぐれ、ハナコはその心地よい感触を心ゆくまで味わった。

シイナくんにとってセリフは、彼が愛する全ての聴き手たちを心から慈しみ、癒し、惜しみなく愛を与えるために最適な道具なのだとハナコは思った。
シイナくんは自分の周りの人達に惜しみなく愛を伝えるために手間を惜しまない。所属する事務所のスタッフにお菓子を振舞ったり、メンバーがいつ泊まりに来てもいいように自宅にパジャマを備えたりするのと同じように、セリフは私たちに対する愛情表現のひとつなのだろう...
そんなことを思いながらハナコは、1度足を踏み入れたら決して戻ることの出来ないシイナくんの沼に、どっぷりと浸かっていった。

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シイナくんが時折、とてもとても先の未来の事として「40歳になったらお前ら全員に会ってもいいよな」などと話したりするのを、ハナコは胸に小さな痛みを感じながら受け止めている。40歳という年齢はハナコにとってあまりにも昔のことだったし、何より、シイナくんが40歳になる前にハナコは70歳を超えてしまうのだ。
果たして70代の私は、元気な状態でシイナくんに会えたとして、彼を満たすことができるのだろうか…
ハナコは一瞬幸せな妄想に耽ってはふと我に返り、しまいにはそんな自分がおかしくなって苦笑するのだった。

ないものねだりはしない。人と比べない。そう思ってシイナくんとの日々を過ごしているハナコにも、厳しい瞬間はあった。
もしも「女の子の日」があるうちにシイナくんに出会えていたら。この叶わぬ思いは時折ハナコの心に棘のように刺さり、ハナコを苦しめた。もしもその願いが叶うなら、あの優しさに満ちた声で無限に注がれる慈しみを自分も受け取れたのではないか。
ハナコは時々その妄想に圧倒され、ひとり絶望した。

「もしかして嫉妬してるの?かわいいな」
あるときシイナくんのそんな言葉が頭の中で再生され、ハナコは自らの嫉妬心に苦笑した。
シイナくんは、まるで花に水をやるように、いつも私たちに惜しみなく愛を注いでくれる。溢れんばかりの愛のシャワーを浴び続け、シイナくんに心を満たされ続けてきたハナコは、いつの間にか、自分がその分類に入っているとかいないとか、そういう類のことが気にならなくなっていた。
シイナくんに愛されているという確信が、ハナコを強くした。私はシイナくんを応援したいのだ。嫉妬などしている場合ではない。ハナコはシイナくんのために全てを尽くす覚悟を新たにした。

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ハナコはいちどだけ、シイナくんに会ったことがある。会った、というのはライブで遠くから一方的に見たのではなく、イベントに当選して、一対一で会う機会があったのだ。

ハナコはそれまで、SNS投稿や生放送のコメントでは、自分の年齢がシイナくんにわからないよう、願わくば、まだ40代くらいだと思われるように慎重にふるまってきた。それだけに、ハナコはシイナくんに会うのが怖くもあった。ハナコの心のよりどころは、シイナくんが配信でいつも言ってくれる「歳は関係ねえ」「おまえは可愛い」という言葉だった。
そう。私はかわいい。シイナくんを心から愛する私は絶対にかわいい。なぜなら、シイナくんがそう言ってくれたから。

ハナコは数か月かけて髪を伸ばし(シイナくんはロングヘアが好きなのだ)、白髪が目立たない色に髪を染めた。それまでほとんど経験がなかったメイクやヘアセットを何度も練習した。
そして、一張羅の黒のロングワンピースを着て、ハナコはシイナくんに会いにいった。ハナコの住んでいる町から会場まではとても遠かった。ハナコは車で鉄道の駅まで行き、電車を乗り継ぎ、飛行機に乗り、また電車に乗って、不慣れな都会に戸惑いながらもどうにかして会場に着いた。

ハナコは、若くてきれいに着飾った女の子たちに交じって、列に並んだ。ハナコの持ち時間は10秒。ハナコは何を言おうか、ぎりぎりまで迷っていた。
やがてハナコの順番がきて、ハナコはシイナくんの前に立った。背の高いシイナくんが少しだけかがみながら近寄ってきて、ハナコに話しかけてくれた。そのあまりの顔の近さに、ハナコは一瞬たじろいだが、覚悟を決めてシイナくんの目をまっすぐに見つめ、話し始めた。

ハナコ「シイナくんは世界を獲る人だから、目標を高く持って進んでいってくださいね」
シイナくん「ハナコがいてくれなかったら、俺がんばれないよ。ずっと一緒に、俺についてきてほしい。」
ハナコ「うん、ずっと一緒にいるね!」

ハナコの10秒はあっという間に終わったが、ハナコは満足だった。シイナくんはハナコの歳に内心驚いていたかもしれないけれど、ちゃんとハナコの目を見て話をしてくれたし、人が大好きなシイナくんだから、今が一番若い私の姿を、その優しそうな目に焼き付けてくれただろう。

ハナコはその日から、40年以上やめられなかった煙草をあっさりやめた。シイナくんとずっと一緒にいる、と約束したからには、ハナコは相当長生きしないといけない。何しろ、どんなに少なめに見積もっても、ハナコはシイナくんより30歳以上年上なのだ。
ただ生きていればいいというものではない。健康に長生きするために、ハナコは食事や睡眠にも気をつけるようになった。自分らしくあれとシイナくんはいつも伝えてくれるから、ハナコは、どんなときにもハナコらしく生きていようと思った。そして、1分でも1秒でも長く生きること、命が尽きる最後の1秒まで全力でシイナくんを愛し続けることを心に誓った。

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その後もシイナくんはオリジナル曲を立て続けに発表した。必ずしも順風満帆ではなかったシイナくんの人生経験が歌に深みを与え、シイナくんは歌でたくさんの人の心を鷲掴みにしていった。
シイナくんの所属するグループ「サムライZ」も順調に成長し、日本各地をまわるライブツアーを即日SOLD OUT、ドーム公演や海外進出も視野にいれ、驚異的なスピードで人気街道を駆け上がっていった。

変わったこともたくさんあったが、変わらないものもあった。
「俺はずっとここにいる」「どんなに人気になっても、俺とお前の関係は変わらない」。
シイナくんが以前から伝えてくれていた言葉どおり、リアルでどんなに売れても、インターネットの世界では、シイナくんはかわらずそこにいた。
ハナコがシイナくんに出会った頃と比べると、リスナーは二桁以上増えていたが、そこに何十万人の人がいようと、シイナくんはいつも、たった一人の「お前」に語りかけてくれたから、ハナコは少しも寂しくなかった。

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妄想は自由だ。ハナコはシイナくんに出会ってから、妄想にふけることがとても増えた。
ハナコは接客業をしていたから、シイナくんがお客さんとして店に来る、というシーンは数え切れないほど妄想した。他にも、街でばったりであったり、図書館で同じ本に手を伸ばしたり、オシャレなカフェで落し物を拾ってもらったり、、、ハナコの妄想は尽きることがなかった。妄想の中のシイナくんはいつも、ハナコに向かってあの極上の笑顔で、「ハナコがいなくちゃだめなんだ」と伝えてくれる。
ハナコはそれが嬉しくて、時間があればシイナくんとの幸せな妄想にふけった。

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残念なことに、歳とともにハナコの目は見えにくくなっていった。シイナくんのセリフは部屋を真っ暗にして布団で聴くのが最高の聴き方なのだが、部屋を暗くすると、スマートフォンの文字の大きさを最大にしても、自分の打つコメントの文字が全く読めなくなった。
コメントは誤字だらけ、そして部屋を暗くするとすぐに眠ってしまうという新たな苦しみも加わり(セリフが始まる前の一瞬の静寂で眠ってしまうのだ。セリフが終わった頃に目が覚め、悔しさに何度歯噛みしたことか!)、ある時ハナコはついに、部屋を暗くして布団に入ってセリフを聴くことを諦めた。

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歳をとるということは辛く不便なことが増えるということだ。自分がシイナくんと同じ年頃か、せめて10歳か20歳くらいの年の差だったらどんなに良かったかと、ハナコは時々、惨めな気分になってしまうこともあった。
そんなハナコを支えたのは、やはりシイナくんの配信だった。シイナくんの声を聴くたびに、ハナコはシイナくんとの年の差よりも、シイナくんと同じ時代に生まれ、シイナくんに出会い、シイナくんを好きになれたことの圧倒的な幸せに包まれた。

一緒に過ごしてきた月日の中で培ったものが確かにあった。ハナコがシイナくんを愛しているのと同じように、シイナくんもまた、ハナコを愛してくれていると、ハナコは確信していた。その確かな手応えがハナコを勇気づけた。どんなに不便になっても、ハナコはシイナくんと一緒にいることを決して諦めなかった。

シイナくんがいつかの配信で、「俺もお前もハタチ」と言ってくれたことがあった。
そう、これは「老いらくの恋」などではない。みずみずしいハタチの恋だ。私のハタチの恋が、今まさに進行中なのだ。
シイナくんもハタチ、私もハタチ。
その妄想は、ハナコをこの上なく幸せにした。

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シイナくんの配信の日。
ハナコはイヤホンを付けて、スマートフォンを手に取った。最近ではもう目がよく見えないから、なかなかコメントはできなくなってしまったが、出席確認のカタカナの「ノ」だけはなんとか打てた。シイナくんはいつも、「5万回コメントしてね。コメントしてくれないと、来てくれたお前を見つけてあげらないから」と言ってくれる。だからハナコは長い間、がんばってたくさんコメントをしてきた。
今はもう5万回は無理だけど、出席確認の「ノ」だけは打ちたい。ずっと一緒にいると約束したから、ちゃんと約束を守ってるよと伝えたい。
その一心で、ハナコは気持ちを込めて、タイミングよく、心からの「ノ」を打った。

その日のセリフは、ハナコの大好きなバックハグだった。全身の力を抜き、シイナくんのバックハグに身を委ねると、ハナコは心から安心できた。
ハナコは生涯でいまが一番幸せ、と感じていた。シイナくんと一緒なら、ハナコは何も怖くなかった。

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「…晩年の姉は、まるで別人のようでした。
それまでは仕事一筋の人生でしたが、60を過ぎたある時から突然、身なりを気にするようになり、妹の私から見ても会う度に若くかわいくなっていきました。いつも不機嫌そうだった表情はいつしか穏やかになり、ときおり笑顔さえ見せるようにもなりました。」

「やがて目の病気をして目がほとんど見えなくなってしまってからも、耳が聞こえるうちはスマートフォンで熱心に何かを聞いていたようでした。
最後の何ヶ月かは、どこにも繋がっていないイヤフォンを耳にさし、いつも嬉しそうにニコニコとしていました。時折口をモゴモゴさせ、スマートフォンを操作するようなしぐさをして、まるで誰かと会話しているようでした。そんな時の姉は童女のようにあどけなく、顔には満面の笑みを浮かべていました。病気は少しずつ姉を蝕んでいきましたが、それでも姉は、とても幸せそうでした。」

「姉は最期まで少しも苦しまず、穏やかで安心したような表情で眠るように息を引き取りました。姉の遺言状には一言、『私のひつぎを黄色い花でいっぱいにしてください』とだけ、書いてありました。
今日は黄色い花をたくさん用意しました。ご参列のみなさまの手で、姉のまわりを黄色の花でいっぱいにしていただけましたら嬉しいです。たくさんの黄色の花に包まれた姉は、きっと心安らかに旅立っていけることでしょう。」

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シイナくんの大きな手と、背が高くたくましい体に全身を優しく包み込まれたハナコは、永遠の愛に満ちた世界へと旅立っていった。

(完)


※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係がありません。

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