見出し画像

聖書はそう言っているのか?(1)ソドムとレビ記 創世記19:1~11

先聖日、「聖書はそう言っているのか?(1)」と題して、ソドムとレビ記 創世記19:1~11などを開き、メッセージを語らせていただきました。
YouTubeにアップされていますが、他のサイトに埋め込みできないように設定されていますので、リンクしておきますね。←クリックしてご覧ください。

テキストは以下の通りです。
礼拝説教の時間では、語りきれなかったことなども入っておりますので、お読みくださると感謝です。

聖書箇所 創世記19:1~11(新改訳2017)
1その二人の御使いは、夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところに座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって彼らを迎え、顔を地に付けて伏し拝んだ。
2そして言った。「ご主人がた。どうか、このしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊りください。そして、朝早く旅を続けてください。」すると彼らは言った。「いや、私たちは広場に泊まろう。」
3しかし、ロトがしきりに勧めたので、彼らは彼のところに立ち寄り、家の中に入った。ロトは種なしパンを焼き、彼らのためにごちそうを作った。こうして彼らは食事をした。
 4彼らが床につかないうちに、その町の男たち、ソドムの男たちが若い者から年寄りまで、その家を取り囲んだ。すべての人が町の隅々からやって来た。
5そして、ロトに向かって叫んだ。「今夜おまえのところにやって来た、あの男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」
 6ロトは戸口にいる彼らのところへ出て行き、自分の背後の戸を閉めた。
7そして言った。「兄弟たちよ、どうか悪いことはしないでください。
8お願いですから。私には、まだ男を知らない娘が二人います。娘たちをあなたがたのところに連れて来ますから、好きなようにしてください。けれども、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは、私の屋根の下に身を寄せたのですから。」
9しかし、彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そして言った。「こいつはよそ者のくせに、さばきをするのか。さあ、おまえを、あいつらよりもひどい目にあわせてやろう。」彼らはロトのからだに激しく迫り、戸を破ろうと近付いた。
10すると、あの人たちが手を伸ばして、ロトを自分たちのいる家の中に引き入れて、戸を閉めた。
11家の戸口にいた者たちは、小さい者から大きい者まで目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけようとする力も萎えた。

☆説教 聖書はそう言っているのか?(1)ソドムとレビ記 
私(藤本牧師)の「ヨセフの物語」は前回で終わりにいたしました。
そして今月は一回、来月は二回、合計3回にとどめることにいたしました。
今日が旧約聖書です。そして次回はパウロ。そして最後はイエスさまの言葉から考えてみたいと思います。

果たして聖書は性的マイノリティーの方々をどう考えているのか?
聖書にそれを断罪する聖句はあるのか?という、このポイントからご一緒におつき合いいただきたいと思います。

私(藤本牧師)がこの問題を考えるきっかけになりましたのは、アメリカに留学いたしました22歳の時でありました。神学校です。
英語もよく分からない私を助けてくれた温厚な友人がいました。
その彼がある日、自分はゲイであるということを打ち明けてくれました。
初めて聞いた私はまだ22歳でしたので、「へぇー、そうなんだ」位しか考えていませんでした。
しかしそこで彼が告白したことは、自分の人生に展開されて来た、存在論的な内なる葛藤――いったい自分は何者なんだ、ということですね。

勿論周囲に対する悩みもありますけれども、自分に対する悩み――戸籍上自分は男であるのに、心が女性である。
ま、どういうことなのか、私(藤本牧師)は聞きました。
彼は日常体験の中で一つ紹介してくれました。
寮生活をしていますと、男子寮でシャワーを浴びます。
アメリカは個室のブースがなくて、一斉に蛇口が出ているだけで、そしてシャワーを浴びます。
そして彼は言います。「まるで男風呂の中に、一人女性が放り込まれているような気がする」と。
彼は夜中、誰もいない所、こっそりシャワーを浴びていました。
直ぐに寮を出て、一人で住むようになります。

彼のようなケースをLGBTQの「T」トランスジェンダーと言います。
トランスジェンダーは心の性は女性。でも戸籍上の性は男性、からだは男性。
そのような人はまことに少ない、とは考えないでください。
有名な平良愛香(たいら・あいか)先生の書物の題名は非常に興味深い真理を伝えています。その本(のタイトル)は、
『あなたが気づかないだけで、神様もゲイもいつもあなたのそばにいる』
あなたが気づいていないだけで、神さまもゲイもいつもあなたのそばにいる――ただあなたにそうだと、カミングアウトしないだけだと。
それは家族であればなおさらのこと、それが教会の中であれば、なおさら難しい。

2018年にお茶の水女子大学は、トランスジェンダーの学生を受け入れる決定をいたしました。
つまり戸籍上は男性、でも性自認が女性である学生を、大学が受け入れるという決意がこう書いてあります。
「学ぶ意欲のあるすべての女性にとって、真摯な夢の実現の場として存在する」という、
国立大学法人としての本学のミッションに基づき、この方を受け入れると(判断したものです)。

その文章を見て思いました。
お茶の水女子大学は「本学のミッション(※任務とか使命)のゆえに、受け入れる」
これをもじれば、教会は「教会のミッションのゆえに、こういう方々を受け入れない」としたら、果たしてそれは聖書に沿った考え方なのか?
あるいはイエス・キリストなら本当にそのようにされるのか?
ということを、三回に亘ってお話ししたいと思います。

2007年のアメリカの映画で『For the Bible Tell Me So』というドキュメンタリーがあります。
『For the Bible Tells Me So』というのは、「主われを愛す」の一節で、「イエスさまは私を愛してくださる。なぜなら、聖書がそのように言っているから。」
ドキュメンタリーの中に、父親と娘が出てきます。かわいい娘でした。
ところが、大人になるにつれ、娘の性指向が明らかになります。
娘が心を向けるのは、男性ではなく女性でありました。
彼女の心は男性なんです。性自認と言いますけれども、自分で自覚している性が男性なのですよね。
父親は葛藤します。結果、この事実を受け入れることはできない、と判断します。
『For the Bible Tells Me So』なぜなら、聖書はそう言っているから!と。

今回は旧約聖書、次回はパウロ、つまり新約聖書で、本当に聖書はそんなことを言っているのか?です。
皆さん、お手元に「天の窓」が届いたと思いますけれど、巻頭言で「だまされてはいけません」という文章がございましたでしょう。
あれは私(藤本牧師)が書いたものではありません。編集者がこの講壇のために、わざわざ書いて備えていてくださいました。
「聖書はそう言っているのか?」
その点に話を絞ってお話ししますので、聖書を沢山開きます(笑)。

で、追いつかないと思います。
なるべくこちら(スクリーン)を見て、そして聖書の個所だけはどこかで筆記されておくと、後で見ることができますし、所々原稿の量から言って飛ばします。
で、T・Yさんが日曜日の夜9時には必ずアップしてくださいますので、そちらを読んでくださるという方法があります。
(※今回は、藤本牧師が礼拝で語ったこと以上のことが藤本牧師の原稿に含まれますので、大変理解を助けられます。)

今日の出来事、これはソドムです。
同性愛と言えば、ソドムが上がってしまいます。
ソドミーと言えば、男性同士の性行為を指します。
それを禁じる法律というのは、欧米諸国どこにもありました。ソドミー法と言います。

旧約聖書の(創世記)の19章で、神の使い二人が、夕暮れ時にソドムの町に着きます。
門のところに座っていたアブラハムの甥ロトが、自分の家に見知らぬ旅人を迎え入れます。
その夜、ソドムの男たちは若い者から年寄りまで、ロトの家を取り囲み、叫んで言った言葉が――これですね、ちょっと画面、見ていただきます?
【画面:創世記19章5節「彼らをよく知りたいのだ」に黄色のハイライト】
<創世記19:5>
5そして、ロトに向かって叫んだ。「今夜おまえのところにやって来た、あの男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」

これがどうして同性愛的な性行為の典型として出て来るのか?
そういう文章ではないですよね。
問題はこの「知りたい」という言葉です。
「ヤーダー」というヘブル語(知る)は、時に性行為を指します。
たとえばアダムは妻エバを知った。そして(エバは身ごもり、)カインが生まれるんです(創世記4:1)。
その時に、「知った」という言葉が使われています。
「ヤーダー」という「知る」はそんなに数多く出て来るわけではないんです。10回ぐらいしか出て来ません。そのすべてが性行為を指しているとは限らないんです。
でも多くの人たちは、そのようにこの箇所を読んでしまいます。
性的な親密さ。よく知りたいと。

単純な問いかけです。
ソドムの男たちが、若い者から高齢者までロトの家に押しかけて来て、客人となった二人に性行為を求めているのか?ですよ。
若い者から、町中の男たち、高齢者に至るまで、この二人に性的な関心を持っているのか?と言われたら、いやいや(笑)、それは不自然だろうと思いますね。
仮に「知る」という言葉が性行為を指すとしたら、これは明らかに集団的暴行ですね。
所謂LGBTQ とは何ら関わりもない問題。

ここから始めて、3つのポイントでお話をいたします。
1)アブラハムやロトの時代、古代オリエントと言いますけど、その時代の文化脈というものを先ず考えていただきたい。

聖書のこの言葉に目を留める前に、その時代の文化的な脈略を考えていただきたい。
仮にソドムの男たちが性行為を求めたとしても、です。
(私はそう思いませんが、仮にそうだったとしても、)
それ(男性同士の性行為)はこの時代、この地域で、特別な意味があります。
特別な意味は、愛とは関係ないです。
そのような行為に及ぶ者が、その行為を受ける相手を卑しめる、辱める、支配する、屈辱を与える、という意味なんですね。

――説教では省かれたところ――
エジプトの神話があります。
エジプトの王座を狙って、二人の息子、セツとホラスが争います。
「セツは自らの手で自身を固くさせ、ホラスは自分の手をももの間に入れ、セツを受け入れた」。

行為に及んだセツは相手を屈服させ、支配しました。
受け入れたホラスは男性としての尊厳を失い、侮蔑の対象となります。

次の日にセツは誇らしげに公表し、王の後継者として皆の前で認められます。
――ここまで――

ですから、戦争の場面で、或いは争い事で、往々にして、古代オリエントの文献にはこういうことが記されています。
行う者が強さを誇示し、そしてそれを受ける者は負けを認めます。
ですから仮にソドムの男たちが要求したことが性的な行為に関わることだとしても、そこに愛や或いは性的関心があるわけではない。
一方的に相手に屈辱を与えて、支配欲を満たすことを彼らは考えているわけですね。

ソドムについて、新約聖書をちょっと見ていただきたいと思うんですが――
第二ペテロの手紙の2章の6節です。これも映していただきます。その方が早いかなと。
Ⅱペテロの手紙の474~475ページですね。2章のちょっと6節から見ますね。
※Ⅱペテロ2:6~12が説明と共に読まれる。
【※読まれた抜粋した節の文中《 》は強調の黄色のハイライト部分が画面で見られる】
<Ⅱペテロ2:6~12 >
6 また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、《不敬虔な者たちに》起こることの実例とされました。

このソドムとゴモラの町の様子が記されています。いいですか?

7 そして、《不道徳な者たちの放縦なふるまい》によって悩まれていた正しい人、ロトを救い出されました。

さらに色々書いてあります。

10 特に、《汚れた欲望のまま肉に従って歩み》、権威を侮る者たちに対して、主はそうされます。
  この者たちは《厚かましく、わがままで》、栄光ある人たちをののしって恐れません。
11 《御使いたちは》勢いも力も彼らにまさっているのに、主の御前で《彼らをそしって》訴えたりしません。
12 この者たちは、《本能に支配されていて》、捕らえられ殺されるために生まれて来た、《理性のない動物のようです》。自分が知りもしないことを悪く言い、動物が滅びるように滅ぼされることになります。

という風に、ソドムの男たちの罪が指摘されています。
ここに同性による性行為の言及は一切ないです。
責められているのは、不道徳な者たちの放縦なふるまい。
そしてそれに加えて、御使いにさえ屈辱を与えようとする、御使いをも卑しめようとする、神に対する傲慢な挑戦的な態度が記されています。

もう一つ新約聖書にユダ書の7節がありますが、それは触れません。
そこもまた興味深いですけれども、ホームページを見ていただきたいと思います。
――説教では省略された箇所――
<ユダ書7節>
7 その御使いたちと同じように、《ソドムやゴモラ、および周辺の町々も、淫行にふけって不自然な肉欲を追い求めた》ため、永遠の火の刑罰を受けて見せしめにされています。

ギリシャ語では「不自然な肉欲」ではありません。
英語では、見知らぬ肉体strange flesh
英国の著名な新約学者リチャード・ボウカムは、
二重にstrange, 旅人として、御使いとして
先程の第二ペテロもそうでした。神の御使いに襲いかかる――それほど神に対して挑戦的なのです。
――ここまで――

一番目に短くお話したいのは、ソドムの話には、性の問題ではなく、古代オリエント特有の世界が描かれている。
それは、支配する側が、見知らぬ者を卑しめ、屈服させる、という意味合いが非常に強いという話をしました。
本当にそうなのか、と思うならば、実はもう一度、士師記の19~21章に同じような話が出て来ます。
同じような話が、ほとんど同じですね。そこもよく見てください。
そうすると、必ずしも性的なことではないな、ということがよく分かると思います。

2)物語の流れは実はソドムの話は、私(藤本牧師)は今お話ししたのとは違うスポットライトを当てて初めて分かるのではないか、と思うようになりました。

違うスポットライト――ソドムの罪、ソドムの話っていうのは、どういうスポットライトになるのか?
それは見知らぬ人をもてなす美徳。
見知らぬ人をもてなし美徳と、見知らぬ人に屈辱を与える悪徳です。

ちょっと創世記に戻っていただいて――さっき19章でしたけれども――創世記の18章。
そこに同じ神の使いがアブラハムのところを訪れています。
このアブラハムの尋常ではない「もてなし」に目を留めるために全文読みますので、ちょっと画面を追っていただきたいと思います。

<創世記18:1~8>【画面:《 》に黒ペンで傍線】
1【主】は、マムレの樫の木のところで、アブラハムに現れた。彼は、日の暑いころ、天幕の入り口に座っていた。
2 彼が目を上げて見ると、なんと、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはそれを見るなり、《彼らを迎えようと天幕の》入り口から走って行き、地にひれ伏した。
3 彼は言った。「主よ。もしもよろしければ、どうか、しもべのところを素通りなさらないでください。
4 水を少しばかり持って来させますから、足を洗って、この木の下でお休みください。
5 私は食べ物を少し持って参ります。それで元気をつけて、それから旅をお続けください。せっかく、しもべのところをお通りになるのですから。」彼らは答えた。「あなたの言うとおりにしてください。」
6 アブラハムは、天幕のサラのところに急いで行って、「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作りなさい」と言った。
7 そして、アブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。
8 それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、料理した子牛を持って来て、彼らの前に出したので、彼らは食べた。彼自身は木の下で給仕をしていた。

長いでしょう?見知らぬ人をここまで「もてなす」アブラハムが、全文読みますと、よく分かりますよね。
寄る辺のない旅人を、迎える、もてなすということは、へブル人への手紙13章の2節では――
<へブル13:2>
2旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました。

アブラハムはこれがまさか神の御使いだとは知らずにしたと、単なる旅人だと思ってそれをした、と書いてありますけれども、
見知らぬ、寄る辺のない旅人を迎えて、もてなすことは、聖書の世界では、隣人愛の象徴ですね。
するとアブラハムは、その隣人愛が尋常でなかった、ということが分かります。

そして今18章を見ていただきましたけれども、もう一度聖書を映していただいて、
先程戸塚先生に読んでいただいた19章を見てください。
【画面:創世記19章1節「彼らを見ると、立ち上がって~伏し拝んだ」2節「ご主人がた~旅を続けてください」3節「ロトは種なしパンを焼き~作った」に黄色のハイライト】

こう始まりますでしょう。
<創世記19:1~3>
1その二人の御使いは、夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところに座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって彼らを迎え、顔を地に付けて伏し拝んだ。
2そして言った。「ご主人がた。どうか、このしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊りください。そして、朝早く旅を続けてください。」すると彼らは言った。「いや、私たちは広場に泊まろう。」
3しかし、ロトがしきりに勧めたので、彼らは彼のところに立ち寄り、家の中に入った。ロトは種なしパンを焼き、彼らのためにごちそうを作った。・・・・・・

と書いてあるじゃないですか。
ここにも、ま、アブラハムほど長くはないですけれども、詳しくロトの見知らぬ旅人を迎え入れている姿勢が記されていますよね。
聖書の世界の、最善の美徳は「見知らぬ旅人を迎えること」だとすると、
それと対照されて、最悪の悪徳は「見知らぬ者を辱めること」ですね。
たとえそれが神の使いであっても挑戦し、見知らぬ者を屈服させようとする行為です。

ちょっと軽~く考えますね。いいですか?
転校生がクラスにやって来ました。小学校で、どこか変わった風貌で、ボサボサ頭であんまりかっこよくない服装だとします。
声をかけて仲良しになることは、神さまが喜ばれることです。
「こいつは一体どこのどいつだ」と思いながら、見知らぬ奴を無視するか、或いは挑戦的な態度を取って、「自分の子分にでもしてやろう」と思うなら――中高生ぐらいならあり得る話ですよね――その心理はソドムの人たちと同じですね。

それは職場でも、職場の仲間でも、或いはママ友でも、教会でもそうです。
見知らぬ人と言うのは、自分たちと全然違う人たちでしょう。
その人たちを迎えるということは、隣人愛であって、素知らぬ顔をして、職場の仲間であるにもかかわらず味方もせず、無視することは、これはソドムの心理だと思うべきではないでしょうか?

エゼキエル書を見ていただきたいと思うんですが、16章の49節なんですが、ソドムのことがこう書いてあります。これはまた面白いですね。

<エゼキエル16:49>【※「あなたの妹」以下全文に黄色のハイライト】
49だが、あなたの妹ソドムの咎はこのようだった。彼女とその娘たちは高慢で、飽食で、安逸を貪り、乏しい人や貧しい人に援助をしなかった。

というのがソドムの罪。ここでも同性愛行為は書いてないですね。
ソドムの一体どこが悪かったのか?と言うと、「高慢で、飽食で、安逸を貪り、乏しい人や貧しい人に援助をしなかった」と。
興味深いのは、神さまはイスラエルに向かって、「あなたの妹ソドム」って書いてありますでしょう?
ということは、イスラエルはいつの間にかソドムのようになってしまった、ということを神さまが嘆いておられるということです。
イスラエルの神に対する傲慢な生き方――乏しい者を助けないどころか辱め、欲に溺れて神に対する挑戦的な生き方をする――それはイスラエルでも私たちでもあり得ることで、だとしたら、それはソドムと同じではないか?ということを神さまは仰ってます。

3)ごめんなさい。時間は迫りますけれども、短くもう一つ付き合ってください。
有名なレビ記の18章の22節です。

恐らくこれが旧約聖書では一番有名だろうと思います。
いいですか。ここから先はしばらく、聖書だけ映していただければ、と思います。

【画面:レビ記18章22節「女と寝るように~忌み嫌うべきことである」23節全文に黒ペンで傍線。23節「女も」に同色で囲み。22節「男と寝てはならない」23節「動物と寝て」に黄色のハイライト】

<レビ記18:22>
 22あなたは、女と寝るように男と寝てはならない。それは忌み嫌うべきことである。

この一節を取って、LGBTQすべてを弾劾する、という態度を、キリスト教、特に保守的であると取りがちです。
これはいくら何でも理不尽だと、私(藤本牧師)は思います。
その理由を、皆さんに今から聖書を通して、聖書の流れを通して、お示しいたします。

レビ記の17章~26章はレビ記の中でも「神聖法典」(ホーリネス・コード)と呼ばれていて、何が聖く、何が汚れているかということが、ず~っとこう記されています。
たとえばいけにえを献げるやり方。(17:3~7)
動物の肉を食べる時に、その血を避けること(17:10~16)
性的なことについて(18:6~23)、しばらく行きますと、
土地の収穫について(19:9~10)も書いてあります。
種蒔きについても書いてあります。
果樹の収穫、男性と女性の髪形、霊媒の禁止、十戒のような道徳的なこと、敬老、旅人・寄留者の取り扱いなど。
「聖なる神の民であるあなたがたは、他国民のようであってはならない」という意味でず~っと書いてあります。

そのず~っと書いてある中で、一番一般の人々の目が行くのが、なぜか先程お見せしました、18章の22節、「男は男と寝てはならない」なんですね。
イェール大学の有名な新約学の教授でゲイの学者、ボズウェルという人がいます。
ジョン・ボズウェルの書物は日本語にも訳されています。
彼はこう言いますね。
「この膨大な規則の中から、この一句に拘るとしたら、
それは神の律法を重んじているからではない。
単純にゲイを嫌っているからだ。
神の律法を重んじるんだったら、全部重んじたらいい。
なぜか人はこの一句に拘る。」

この箇所は、様々な方向から研究されています。
例えば、他の文化における「制令法典」というものがありますので、それと比較してみたり、また聖書の中で「忌み嫌う」という言葉が117回出て来ます。
これは一体どういう意味をしているのか、とか。
また機会があればまた学んでみたいと思いますが、

私(藤本牧師)は単純に先程アブラハム・ロトと、それからソドムを対照したように、
聖書にこの事柄がどういう風に書かれているのか、という流れを追いかけることで、
単純に意味を皆さんにお示ししたいと思いますので、
(レビ記)18章の6節から見てください。ここからずっと、黄色の文字がそうなんですけれどもね――
【画面6節「だれも、自分の肉親のものに近づき、相手の裸をあらわにして交わってはならない」8節「あなたの父の妻の裸」9節「あなたの姉妹は」10節「あなたの息子の娘」「娘の娘の裸」に黄色のハイライト】

6節から始まります。これが一番最初の基準ですね。
<レビ記18:6>
6だれも、自分の肉親の者に近づき、相手の裸をあらわにして交わってはならない。わたしは【主】である。

というその相手。つまり性的な対象とするのは、一体だれは(対象と)してはいけないか?
いいですか。
8節は父の妻の裸を対象としてはならない。
9節にはあなたの姉妹を相手にしてはいけない。 
10節にはあなたの息子の娘を対象としてはいけない。あなたの娘の娘、これはもう孫ですよね。
一体どこまで行くんだ、と思います。まだまだ続きますよ。(※ページをめくって、11節以降、それぞれに黄色のハイライト)
(11節、あなたの姉妹の裸)
12節、あなたの父の姉妹、おばさんですね。
13節、あなたの母の姉妹、これもおばさんですね。
(14節、父の兄弟の裸、その妻)
15節、(嫁の裸、)息子の妻
16節、これはもう分かりませんね。あなたの兄弟の妻(17節、)そしてその妻の息子の娘、と言うと、やっぱりおじいちゃんと子ども位違うんでしょうね。
肉親と呼んでも、所謂一等親ではないですね。
一体どこまで手を出すのか、と言うほど、その対象の幅が広がっていくんですね。

そして見ていただきます?
【画面:20節「自分の同胞の妻と寝て交わり」に黒ペンの傍線。「同胞の妻と寝て」に黄色のハイライト、22節「女と寝るように~忌み嫌うべきことである」に黒ペンで傍線。「男と寝てはならない」に黄色のハイライト。23節全文に黒ペンで傍線、「動物と寝て」に黄色のハイライト】

20節に、肉親と言うのは自分のそばにいますんで、遊牧民は一緒に住んでいますから、同じ地域ですよね。
でも、それをさらに広げて、同胞の妻と寝て交わってはいけないんです。
そしてさらに女と寝るように男と寝てはいけない。(22節)
でもまだ先があるんですよ。動物と寝て、動物によって身を汚してはいけない。(23節)

というのが一連の流れなんです。
すると、何もスポットは、男性が男性に、ということではないじゃないですか。
これ、同性愛の方にも同性愛の行為にも、何らスポットは当たってなくて、
問題はですね、情欲が奔放に乱れて行きますと、下手をしたら孫である女性、おばさん、兄弟の妻、果てや男性、さらに動物に行く可能性もありますよ、と。
多くの女性をモノ扱いにする、という場合も、私(藤本牧師)はこれに当たるんだろうと思いますね。

ここで描かれているのは、私が今日の説教の初めにお話ししました、神学校時代の友だち、トランスジェンダーの方とは全く関係ないです。
同性愛者ではない。異性愛者の飽くなき情欲が、おばさんに行き、兄弟に行き、孫に行き、男に行き、動物に行く、という《性的マジョリティーの飽くなき淫らさ》が描かれています。

聖書を読む時に、ある一箇節を抜き出す、そして現代のこの状況に当てはめる、というのは、正しい場合と愚かな時があります。
正しい場合――だれでも疲れている人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしのところであなたは安らぎを得なさい。(***マタイ11:28)――というのがありますね。
あれは今の私たちにストレートに当てはまります。
でももし本当によくあの聖書を読みたいなら、あそこで描かれている重荷と言うのは、律法を何とか果たさなければいけない、という重荷です。
人生一般の重荷は描かれているわけではない。

ですから聖書を読む時に、やっぱり前後の関係、脈略を読みますと、
ソドムの問題というのは、アブラハム・ロトのもてなしとの対極として描かれているんだと。
レビ記の18章の23節と言うのは、一番最初、自分の父の母からと――ま、自分の母親でなく、父には母が何人かいて、という状況なんです――そこから始まって、最後動物まで行く、という問題を描いているわけですね。

次回パウロを学ぶ時には、もっと心して、ギリシャ語の意味について一緒に学んでみたいと思います。
色々聖書を開きます。あまり礼拝にふさわしくないようなことは、言いたくありません。
ただ私たちは、アブラハムが、ロトが、見知らぬ旅人を迎えたように、自分と違うなと思う人をも、私たちは愛し迎えることが、隣人愛。
迎えるだけでない、その方をもてなす時に、私たちは真の意味での隣人愛を発揮するんだということを、覚えておいていただきたいと思います。

☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、やがてイスラエルは「あなたがたの妹、ソドムは」と呼ばれる程、ソドムに似通った罪を犯すようになりました。
私たちもともすると、自分のことで頭がいっぱいで、自分の欲をいかに満たすか? 時に飽食もそうでしょう。時にものをあさり、自分の生活を豊かにするということ、仕事に夢中になるということも、そういうことなのかもしれません。
そういう時であればある程、私たちは見知らぬ旅人が身を寄せに来たら、その方々を追っ払ってしまうことでありましょう。時に仕事の手伝いをさせるかも知れません。
どうか、見知らぬ人・旅人を大切に扱うことができるように、人への尊敬を神への尊敬と変わらず、持ち続けることができるように助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
この一回と、来月は二回、合計3回にとどめることにいたしました。
この回は旧約聖書です。そして次回はパウロ。
そして最後はイエスさまの言葉から考えてみたいと思います。

果たして聖書は性的マイノリティーの方々をどう考えているのか?
聖書にそれを断罪する聖句はあるのか?という、このポイントからご一緒におつき合いいただきたいと思います。
私たちは、愛を持って寄り添い、受け入れる教会でありたいと思っています。

2022.10.09インマヌエル高津キリスト教会礼拝説教より(藤本満)


サポートは感謝して制作の補助費として用いさせていただきます。