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恐怖と笑いは表裏一体と言うけれど 『ケーブルガイ』


「ホラーとコメディは表裏一体」を体現した作品かもしれない

 しばしば「スリラーコメディ」と紹介される『ケーブルガイ』(96)は、実際のところは完全なる「サイコホラー」だ。ただし劇中には計算されたギャグが詰め込まれており、「馴れ馴れしい配管工につきまとわれる」というそもそもの設定は喜劇そのものといえる(私が「喜劇」をどう定義しているのか気になるところだが)。この映画は「ホラーとコメディは表裏一体」という定理を体現した作品と称すべきなのかもしれない。

 本作で監督を務めたベン・スティラーは、『ナイト ミュージアム』シリーズ(06〜14)などへの出演で知られる「あの」ベン・スティラーだ。MTVで『ザ・ベン・スティラー・ショー』(92〜95)というコント番組を持ってはいたが、当時はまだ『メリーに首ったけ』(98)で大ブレイクする前で、俳優ではなくクリエイターとして成功する道を望んでいた。主演のジム・キャリーはすでにハリウッドスターの地位にあったが、シリアスな「演技力」が必要な役柄を求められるようになったのは本作がきっかけである。


「つまらない脚本家」は信用ならないということなのだろう

 この作品の製作にあたっては監督や出演者よりも先に脚本が決まっていたという。脚本を書いたルー・ホルツ・Jr.という人物のことを私は寡聞にして知らない。ホルツは「ケーブルガイ」役の候補としてクリス・ファーレイと面談までしていたが、スケジュールの都合で企画は頓挫し、後から参加した製作のジャド・アパトーとスティラーがプロジェクトを引っ張っていくことになった。二人はホルツの脚本(当初は男二人の単なるバディムービーになるはずだったらしい)を根本的に書き換えた。

 そして「ケーブルガイ」役はジム・キャリーが演じることに決まったが、ホルツによると、キャリーは決してホルツに会おうとはしなかったらしい。アパトー=スティラー=キャリー組にとって、「つまらない脚本家」は信用ならない存在だったということなのだろう。ホルツの身になれば理不尽な話だが、スティラーらはそれほどまで真剣にこの映画に取り組んでいたのだ。かくして「ヒッチコックとジェリー・ルイスが融合した作品」(キャリー)は完成し、奇特なスリラーコメディとして支持を集めることになる。


この映画の中でジム・キャリーはほとんどまばたきをしない

 スティラーにとって本作は「4000万ドルをかけて作った『ザ・ベン・スティラー・ショー』のようなもの」だそうで、たしかに、一本筋の設定で押し通される96分間は「長尺コント」と言えなくもない(そこに私は好感を抱く)。しかも、本作にはジャニーン・ガラファローやボブ・オデンカークといった『ザ・ベン・スティラー・ショー』のレギュラーキャストも助演していて、配役の面でも同番組とのつながりを感じさせられる。

 ついでなのでほかのキャストにも触れておくと、本作では、ジャック・ブラック、オーウェン・ウィルソン、キャシー・グリフィンのブレイク前夜の姿も確かめることができる(「ケーブルガイ」の母親役を演じたグリフィンの場合は背中しか映らないが)。さらに、我がオールタイムベストの一作『パロディ放送局UHF』(89)でしか見かけることのなかったデヴィッド・ボウ(デヴィッド・ボウイではない)が、「ケーブルガイ」の次なる「ターゲット」となる救急隊員役を演じているのも見逃せない。

 ただ、本作で最も重要なキャストは、言わずもがな、「ケーブルガイ」役のジム・キャリーだろう。キャリーがジェリー・ルイスの正統な後継者にして「上位互換」だと断定できる理由の一つは、その演技プランの確かさにある。この映画の中でキャリーはほとんどまばたきをしていない。かつて石坂浩二が市川崑監督から「意味がないならまばたきするな」と叱られたのは有名な話だが、本作でのキャリーは、逆にまばたきをしないことによってキャラクターのソシオパスらしさを巧妙かつ自然に漂わせているのだ。


「テレビを消して書を読もう」では本作のテーマに沿わない

 一方、脚本の上では気になるところがないわけでもない。この映画は「テレビ中毒」を風刺し、一つのテーマとしている。具体的なツールの変化があるとしても、現在の我々も「SNS中毒」や「動画サイト中毒」に陥っているわけだからそのテーマは普遍的である。しかし、テレビを見れなくなった中年男性が代わりに読書を楽しむという終盤の描写は、あまりに唐突かつ不自然で、不要どころか「入れるべきでない」場面のように感じられた。

 というのも、「ケーブルガイ」の問題性は少年期に「読書をしなかったこと」や「テレビ以外の媒体に触れなかったこと」にあるというより、健全な友情や対人関係を構築してこなかったことにあると思うからだ。テレビの代わりの媒体を選んだところで、内容の差はあれど中毒の問題は変わらず残るのだから、「テレビを消して書を読もう」では本作のテーマに沿わない(あるいは相反する)結論になってしまう。アパトーとスティラーが用意したこの映画の落としどころは、いささか苦し紛れだと言わざるを得ない。


表裏一体ということは「表と裏の違い」はあるということだ

 本作ではアメリカのテレビドラマや映画の名台詞・名場面が分かりやすく引用されている。スティーヴン役のマシュー・ブロデリックに『フェリスはある朝突然に』(86)のセルフパロディ的なシャワーシーンをやらせているのは、スティラーとアパトーの遊び心ゆえであろう。しかもそのシャワーシーンが単なるパロディにとどまらず、「ケーブルガイ」とスティーヴンの相性の悪さを予告する不吉な場面として有効活用されているところがニクい。

 私はこの文章の冒頭に「ホラーとコメディは表裏一体」と書いた。これは言い換えるならば、「一体」ではあるが「表と裏の違い」はあるということでもある。この映画におけるシャワーシーンは、観る者を「笑わせたい」という意思を感じさせるギャグであるとともに、「怖がらせたい」という意思が伝わってくる不穏な描写でもあった。本作が「スリラーコメディ」として根強い支持を誇っているのは、制作者がホラーとコメディの違いを意識しつつ、両方を同時に打ち出す術を心得ていたからなのだろう。

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