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国家という概念にはアジア的なものと西欧的なものとがある

国家をちゃんと対象にすえて思考をめぐらすのは、意外とむずかしい。

先日も、日本人の人文学者ばかりが集まる研究会で、まさにそういう事態を痛感させられた。

誠実にして賢明な人たちですら、その思索から、国家論がうっすらとフェイドアウトしていきがちになる―― これには、何か日本に特殊な事情があるのかもしれない。

ということで、吉本隆明『改訂新版 共同幻想論』の冒頭部(「角川文庫版のための序」の最初のあたり)を書きぬく。

昭和56年、西暦1981年の言葉である。

 国家は幻想の共同体だというかんがえを、わたしははじめにマルクスから知った。だがこのかんがえは西欧的思考にふかく根ざしていて、もっと源泉がたどれるかもしれない。この考えにはじめて接したときわたしは衝撃をうけた。それまでわたしが漠然ともっていたイメージでは、国家は国民のすべてを足元まで包み込んでいる袋みたいなもので、人間はひとつの袋からべつのひとつの袋へ移ったり、旅行したり、国籍をかえたりできても、いずれこの世界に存在しているかぎり、人間は誰でも袋の外に出ることはできないとおもっていた。わたしはこういう国家概念が日本を含むアジア的な特質で、西欧的な概念とまったくちがうことを知った。
 まずわたしが驚いたのは、人間は社会のなかに社会をつくりながら、じっさいの生活をやっており、国家は共同の幻想としてこの社会のうえに聳えているという西欧的なイメージであった。西欧ではどんなに国家主義的な傾向になったり、民族本位の主張がなされるばあいでも、国家が国民の全体をすっぽり包んでいる袋のようなものだというイメージではかんがえられてはいない。いつでも国家は社会の上に聳えた幻想の共同体であり、わたしたちがじっさいに生活している社会よりも小さくて、しかも社会から分離した概念だとみなされている。
 ある時期この国家のイメージのちがいに気づいたとき、わたしは蒼ざめるほど衝撃をうけたのを覚えている。同時におなじ国家という言葉で、これほどまで異質なイメージが描かれることにふかい関心をそそられた。こういうことがもっとはやくわかっていたら、国家のあいだに起る争いは、別な眼でみられたろうにとかんがえられたのである。こういう西欧とアジアにおける国家のイメージの差異を、誰かは把握したのだろうか。そしてそのうえで、じぶんの思考や行動を律していたのだろうか。いまでもわたしには尽きない謎のような気がしている。
  (5-7頁)

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ここで反省されているのは、「国家」というものが、なぁんとなく、批判的な思考からすり抜けていきがちな言説習慣みたいなものである。

誤解をおそれずいえば、真っ当なアナーキズムの出発点のようなもの。

とても参考になる。

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