with my little book, I'll be the parson.2

「待って!」
私の静止の声もその耳には届かず、彼は走り続ける。私は彼を追わなければならない。何故かそう思い、後を追った。その距離は縮まらず、広がらず。同じ絵の繰り返しであった。
 「ああ、急がなきゃ。『彼女』を起こさなきゃ」
彼はそう告げ、大きな門をくぐった。その門の扉が閉じてしまい、私は押し開けようとするも微動だにせず途方に暮れる。そして、門に刻まれた文字に気が付き、目を凝らす。
「La……e o…e ……nza, voi c……ate———文字が掠れて…読めない…」

「そこをくぐりたいのかい?」

低く甘い声が響いた。ぐるりと見渡すが、相変わらず美しい花々と、重厚感ある門しかそこにはなく声の所在は解らず、首を傾げた。
そして、「こっちだよ」と声が聞こえたかと思えば門の上から男が降ってきた。
 背は高いが、猫背で飄々とした印象の大きなローブに身を包んだ不思議な男がそのふわふわの長いくせ毛を大きなリボンで結び、指の先まで隠す長い袖から、つ、と長い爪だけを覗かせ門の扉を引っ搔いた。
 「君がここを通りたいと思うなら、そうだなァ」
その口元は弓なりに曲がる。まるで上弦の月を思わる形に。私は彼を見上げているというのにその目元はふわふわのくせ毛で隠れて見えない。
「ここに来る前の君を思い出せばいいンじゃないかな?」
そうくすりと笑った。
 「…私がなにも覚えてないと知ってるの?」
「ふふ、私は君の事なら何でも知ってるサ」
その手が私の髪をひと房取り、私を覗き込むようにしながら口付ける。だが、相変わらずその瞳は見えない。
 「じゃあ、私が誰か教えて」
「おっと、それは自分で思い出さなきゃ。だってそうじゃなきゃ、私は困ってしまうのサ。でもそうだな…仮の名前ならあげられるよ」
「仮の?」
「君も気が付いているでしょう?『不思議の国』だと。だから君は『アリス』で、私は『チェシャ』だよ」
彼は謡う様に、ひらりと舞う。そのくせ毛も追随してふわりと舞った。
 「嫌だ、そんな子供じゃない」
私は顔を顰め抗議する。『不思議の国のアリス』それは幼い少女が夢見るお話なのだから。少なくとも私はそこまで幼くないだろう。
「ふふ、都合が良かったンだよ」
「…とにかく、自分を見つけない事には進めないってことなのね。チェシャ?」
「そうだネ」
まるでぐるぐると喉を鳴らす猫の様に、くすくすと笑う長身の彼。
 「彼女たちに話を聞いてみるのもいいかも知れないヨ、アリス」
そのしなやかな指が指し示すは先ほど私が目を覚ました木の下の近くの花々。確かに、『不思議の国』ならそんな描写があったなと納得する。気恥ずかしいなと思いながら花へ近づく。
 強く風が吹き抜け、木々がざわめき一瞬の静寂が訪れる。
「あら、チェシャがアリスを連れてきたわ」
「戻ってきてくれたのねアリス。さっきはお話も出来なかったから寂しかったのよ」
くすくすと姦しい女性の声が次々と聞こえた。
 「えっと…」
「ふふふ、慣れないのねアリス。そうよね、私達が花のままじゃ貴女も戸惑ってしまうわよね」
そう告げると、再び一陣の強い風が吹く。その強い風に思わず目を閉じ、「アリス」と優しい声に目を開くとそこには美しい花をその身に咲かせた女性たちが立っていた。まるでギリシア神話で描かれるニンフたちのようだった。
 「あ…」
「ふふふ、これなら話しやすいでしょう。ねぇねぇアリス。帰らないでこちらで暮らしましょう?」
私の手を包む手はひんやりと冷たく、植物そのもので不思議な感覚だった。
「でも…私はあの白い人を追いかけなくちゃ」
 「おやめなさい」
ぴしゃり、と彼女たちは冷たい目で一括した。
「白兎を追わないでアリス。貴女が傷付くだけだもの」
彼女たちは顔を顰め私を嗜める。
「私が、傷付く?」
「これ以上、傷付く必要はないの。ね、ここに居ましょう。私達は貴女を守るわ」
 その手が優しく頬を撫ぜた。ひやりとしたその植物の手が心地よくふわりと香る花の優しさが心に染みわたる。
「でも私は…あの扉を…」
「やめて、開けてはいけないのよ。あそこは———」

「なにやら、面白そうな話をしていますね?」

凛とした美しい声が響いた。白く美しい女が、恍惚とした表情を浮かべ立っていた。
「アリス、走って」
「アリス、お逃げ。彼女から離れて」
花々は口々にそう言う。そうして、チェシャが私の手を取り、駆け出す。
 「寂しいわ、アリス。わたくしを置いて行くだなんて、つれないこと!」
その手にした大鎌で、花々を薙ぎ払う。花々は散り行く。その声は届いているはずなのに、私には聞こえない。
首切人が笑いながら、花を、命を刈っていく。
 大きな鐘の音が響き渡り、辺りを見回した。だが確認出来たのは縹色の空に浮かぶ、二つの———月だった。

「———あ、ああああああああ! 駄目、駄目よ!」

彼女は悲鳴を上げ、逃げ帰る。その背中を遠目に見ながら、散ってしまった花々が、元の花弁へと還る姿をぼんやりと見ていた。そしてふわり、とその花弁が蝶の様に風に攫われ、月夜に舞った。
 ぐらりと視界が歪み暗転する。そして背中に触れた扉。それは彼女たちが白兎と呼んだ白いその人がくぐった門。押しても引いてもピクリともしなかったその門の扉が私の体の重さでゆっくりと開き、私を飲み込んでいく。

「———アリス!」

急いた声が聞こえ、その白い指先が私を捉えようと伸びたのを見たが私はそのまま扉の暗闇へと落ちていったのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?