黒人奴隷は「苦難の行軍」をしていたのか


(本稿は、『宗教問題』編集長の小川寛大氏他有志によって構成されている『全日本南北戦争フォーラム』2018年冬季号に寄稿した文章を若干修正、編集したものである。このフォーラムは南北戦争を通じてアメリカという国の本質についてきわめて興味深い研究が行われており、ぜひネット上で検索しその活動に触れてみることをお勧めしたい(三浦)

『苦難のとき アメリカ・ニグロ奴隷制の経済学』(R.W.フォーゲル、S.L.エンガマン共著 創文社)という本がある。アメリカでは1974年に出版され、日本では1981年に訳出されている。本稿は、おそらく現在では入手困難と思われるこの興味深い研究書を、一人でも多くの方に紹介したいという目的で書かれた。南北戦争やアメリカ黒人の歴史や文化に興味がある方は、多少高価でも探して読む価値のある本である。少なくとも私は、本書で黒人奴隷に対する先入観が大きく突き崩された。
 特に衝撃的なのは、本書第4章「搾取の解剖」の部分である。まず、著者自身の言葉から、黒人奴隷が働かされていた大農場(プラウンテーション)についての、私たちがしばしば陥りがちな一般的なイメージを紹介しておこう。
「奴隷プラウンテーションは非常に残酷で、搾取は厳しく、抑圧はあまりにも完璧であったために、黒人はそれによって完全に性格をだめにされた。」
「飢えてはいないにしても、栄養不良で、ごく決まりきった割り当て仕事以外は、取り組むの肉体的能力も精神的活力も持っていなかった」
「乱婚が強制されるか奨励されて、多くの少女は12,13,14歳で妊娠した。家庭の秩序や道徳は、しばしば親子が引き離されて売られていく奴隷制の中で崩壊した。」(以上『苦難のとき』より。)
 この奴隷像を、著者は、農場主は無制限の搾取の加害者、奴隷はその哀れな被害者である、というイメージが、南北戦争以前からふりまかれてきたとする。確かに『アンクル・トムの小屋』で描かれる農場はまさにこのような環境だろう。本書は様々なデータを駆使して、従来の奴隷制度のイメージが、実態といかにかけ離れたものであるかを立証していく。


南北戦争前の奴隷の「衣食住」

 本書の特徴は、南北戦争以前の南部におけるさまざまな資料、国勢調査、奴隷主の遺言書、奴隷農場における営業記録、名簿、奴隷監督への指示書などを収集し、それをコンピューターで整理、奴隷の生活環境を数量的に表したことである。
まず、黒人奴隷に与えられる食糧配給は、当時の農場主から奴隷監督への指示書によれば、一日大人当たりとうもろこし2ポンド、塩漬けの豚肉半ポンドであった。これは一年を通じて奴隷に配給される基本的な「主食」であり、季節ごとに様々な食材、牛肉、羊肉、鶏肉、牛乳、カブラ、えんどう豆、冬瓜、サツマイモ、リンゴ、プラム、オレンジ、カボチャ、モモなどがあった。直接プラウンテーション(南部の大農園)では栽培されない塩、砂糖、糖蜜もあり、また、奴隷は彼らに与えられた自家農園では独自に野菜を栽培していた。
 奴隷の平均的な食事のエネルギー価は、1879年の自由人のそれを10%以上も上回っていた。特に、大量のイモ類、特にサツマイモを摂取していたことから、奴隷のビタミン補給はかなり良質なものだった。勿論著者は、この数字はあくまで、調査対象としてデータを収集した1840年から60年という限定された時期の数字を基にしたものであり、またあくまで「平均値」であって、一年を通じて同程度の食水準があったわけではないことも認めている。ただ、それは奴隷への虐待というよりも、当時の食糧保存の技術が長期間の貯蔵を難しくしたという面も考えておかねばならない。
 住環境においても、南北戦争直前の記録がある。当時の典型的な奴隷の住居は、縦18フィート、横20フィートの小屋で、ふつう1部屋ないし2部屋、屋根裏部屋があり、そこで子供たちは眠り、窓はあってもガラスはなく、そこには木の扉がついていた。殆どは丸木小屋で、巣の隙間は板と泥でふさがれていた。確かに、現在の基準で観れば、よい住環境とは言えないだろう。しかし、当時の南部白人の貧しい人たちもおそらく同様の生活をしていたのではなかったか。
 また、衣服については、大プラウンテーションの記録によれば、成人男性に対する年間支給は、綿のシャツ4枚、ズボン4着、靴1足か2足だった。女性には、年にドレス4着、もしくはドレスを作れるだけの材料が支給された。
 本書は、ある奴隷監督に与えられた指示書を引用している。
「彼らがその衣服を繕い、清潔に保つように、そして1週間に1回はその衣服を洗濯するように、そして、その為の時間が週の終わりに規則的に与えられるように、気をつけなければならない。(中略)彼は、また彼らの家が清潔に保たれ、庭には雑草が生えたり、ごみがたまったりしてないよう気をつけなければならない。」
 以上のような記述を見ると、いかにも南部の奴隷主が「人道的」だったように思われるかもしれない。しかし、これは「経営者」としてのごく自然な発想なのだ。自分がお金を出して買った奴隷たちは貴重な労働力である。農場の肉体労働に携わる彼らに充分な食事を与えるのは、その労働力を生かすために当然のことであり、また、奴隷の健康管理に気を遣うのも当然だ。確かに中には、充分な食事も与えず過酷な労働を課し、奴隷が使い物になら無くなれば再び買い直せばよいなどと考える連中もいただろう。しかし、そのような人間は経営者としては失格の部類である。実際に南部の綿産業が繁栄し、安定した産業となっていたのは(このことも本書は当時の綿価格等で証明している)奴隷労働がこのような環境にあったからこその成功に他ならないだろう。

奴隷にも維持されていた家庭生活

 大プラウンテーションでは、住居は家族単位であることが普通で、農場主は、家族の強い結びつきを奨励し、家屋、家具、衣類、自家菜園、家畜などを奴隷が事実上私有することを許していた。良き労働力を引き出すためには家庭が安定することが必要であり、また、家庭の安定は、子供という新たな労働力をもたらす。これも経営上の利点から、奴隷の家族は守られていたのである。
 そのため農場主は、奴隷の結婚を、立派な儀式を伴う結婚式の形で執り行った。教会が使われることもあり、また農場主の「お屋敷」も式場となった。その日は仕事が休みになったり、御馳走が振る舞われた。奴隷の結婚を奴隷州の法律では認めないこともあったが、農場主は自分のプラウンテーションにおいては大いに結婚を奨励、州政府も、事実上彼らの「自治」を認めていたのである。中世の封建領主と国王の二重権力のようなもので、奴隷主たちは自分の領地における自治権を有していた。
 もちろん、悪質な農場主の中には、奴隷の少女をレイプしたりするような人間もいた。だが、暴力や地位、金銭で女性を自由にするような人間は、黒人女性だけを犠牲にしたのではない。そして、当時の奴隷解放論者が主張したような、農場が白人農場主のある種のハーレムやレイプの場になっているという説や、黒人奴隷を増やすために乱婚が行われたり、「奴隷飼育制度」のような人間性を無視した行為が行われているといった説は、実証的な証拠は極めて少なく、ほとんどが二次情報であると本書は指摘する。
 確かに、「ムラート」と言われる黒人と白人の混血児が存在し、彼らは奴隷主の黒人女性へのレイプや、半強制的な性交から生まれたものだとみなされることが多い。しかし本書は、ムラートは、南部の都市における解放奴隷の中には多くみられたが、奴隷人口の圧倒的な多数を占める農村を含めると、ムラートの比率は1850年で約7.7%、80年段階で10.4%である。アメリカで奴隷制度が始まったのが1620年代とすると、約230年で、ムラートの比率が8%以下だったということは、白人奴隷主が、自由に黒人女性をレイプし続けたということは考えにくい。また、当然のことながら、ムラートと黒人の結婚で生まれた子供も同じく「ムラート」とみなされることから、直接白人を父親とするムラートの比率はさらに少なく考えられるだろう。
 そして、農場主が奴隷の女性をレイプするなどは経営的には自殺行為なのだ。それは必ず奴隷の反感や逃亡、少なくとも労働意欲の低下をもたらし、農場主やその農場の評価を激減させる。実際、当時の農場主は、自分だけではなく、奴隷監督が女性の奴隷と監督を持つことも厳しく禁じる書類を残している。
 また、女性奴隷が最初の母親となる平均年齢は22.5歳で(最も多かったのは15歳から19歳にかけてだが)また、子供の養育は事実上母親の責任とされ、育児の時期は軽い仕事が与えられた。これまた、人道的配慮というよりも、貴重な次世代の労働力である子供を健康に育てるためである。
 農場主はこのように、安定した労働力のために、奴隷の核家族を守ろうとした。しかし、実際には、農場主の経済的失敗、またしばしば農場主の死後の財産整理の過程で、奴隷たちの家族が引き裂かれることもあった。逃亡奴隷の中には、家族の再会を求めて脱走したものがかなりの数いたのである。

意外と少なかった「鞭打ち」

 奴隷労働と言えば、すぐ連想するのが奴隷主による鞭打ちである。しかし、本書が引用しているのは、奴隷にはむち打ちが必要だと力説していたというルイジアナ州の農場主の記録は、そのような概念を打ち消してしまう。
 それによれば、彼の農場には200人の奴隷がおり、労働力は約120人だったが、彼らに対しては2年間のうち、総計で160回のむち打ちが行われた。平均すれば、1年で一人当たり0.7回となる。まったく鞭打たれなかった奴隷は半数に及ぶ。
 これも経営上の観点から考えるとわかりやすい。農場主にとって必要な奴隷とは、鞭をおそれて嫌々働き、隙あらばサポタージュ、もしくは逃亡に及ぶ奴隷ではなく「自分の運命と主人の運命を同一視する、忠実で、勤勉で、責任ある奴隷であった。プランターたちは、奴隷に『プロテスタント』的勤労者倫理を植え付け、その倫理を単なる精神状態から高水準の生産に変形しようとしたのである」(『苦難のとき』)
 プロテスタント的な倫理とは、ウエーバーを持ち出すまでもなく、資本主義的な収益なくして身につかない。だからこそ農場主は奴隷たちに、いくつかの「報酬」を与えた。最もよく綿花を積んだものに、衣料、たばこ、ウイスキー、時には現金が与えられた。奴隷が休憩時間に自主的に働けばその報酬を(現金等で)もらえることもあり、また、成績の良い奴隷は、通常の労働時間が過ぎてから、自分のために働き(屋根をふいたり、簡単な品物を作るような作業であれ)それで収入を得ることもできた。 
 このような農場主と奴隷との間の協定も残っている。
「お前たちは、プラウンテーションでできたトウモロコシと綿花の三分の二がもらえることになる。小麦は、自分で作れば作っただけ自分のものになる。私はまた、お前たちに今年の食糧を支給する。お前たちの作物が収穫されるとき、三分の一は私のためにとっておくことにする。それから、お前たちは監督に、彼の取り分を支払い、私に、私が支給してやったもの、お前たちに着せてやったものを支払い、お前たち自身の税金と医者の診察料、その他の運用のすべての諸経費を支払わねばならない。」
 この「協定」が公正かどうかはまた議論もあるだろうが、「奴隷と農場主」との間に結ばれたものと考えれば、決して最悪のものとはいえず、たとえばロシアの農奴制などに比べれば、はるかに「近代的な契約関係」ではないだろうか。
 このような本は「お前は奴隷制度を正当化するのか」「平均的な統計数字だけで、自由を奪われた人々の辛さがわかるのか」といった批判を必ず呼び起こすものである。ただ、これだけは確実に言えるのは、南北戦争後、黒人奴隷は農場主の奴隷ではなく、企業や農場経営者にやとわれる賃金労働者として再組織化される。その過程で黒人が自由を得たことは確かだが、同時に得たものは「飢える自由」」であり「職業選択の自由」と同時に「失業」という現実をも引き受けることになった。同時に、黒人たちはこれまでは与えられていた生活必需品(衣服、住居、最低限の食糧)を企業から買わねばならず、しばしばその借金に追い詰められていく。これもまた、自由がもたらす悲劇である。
著者は決して本書を、奴隷制擁護のために書いているのではない。当時の時代を統計学的に見ていく中で表れてきた事実を、著者なりの解釈を通じて纏め上げた問題提起なのだ。本書には、近代資本制が、アメリカ南部において、奴隷制というゆがんだ形ではあれ、そこに確かに存在した共同体を破壊していった行く姿をも読み取ることができる。本書は極めて知的な刺激を与えてくれる著作であるにもかかわらず、私の知るかぎり、優れた音楽評論家、鈴木啓志が『ブルース世界地図』(晶文社)で高く評価した以外にはあまり論じられることもなかった。本稿が、本書の再評価の一助となることを祈りたい(終)

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