乃木伝説から小林秀雄へ(下)

小林秀雄は満州事変から大東亜戦争に至る時期、あえて時事的なテーマに触れたいくつかの文章を残した。大東亜戦争開戦後は、『無情という事』など古典世界に評論の場を移すが、この時期の小林秀雄は、迫りくる状況に対し、彼の尊敬するフランスのモラリスト思想家、アランの姿を思いつつ対峙していた。
アランは46歳で第一次世界大戦に志願兵として従軍、『大戦の思い出』(この題名は当時の翻訳、戦後は『マルス、または裁かれた戦争』として発行されたが現在絶版)という回顧録を記した。小林は本書の日本語訳の問題点を厳しく指摘しているが、その上で、次のようにアランへの深い共感を記している。
「勇敢な兵卒アランは、あくまで平素の哲学者アランである。戦争という大事件も、彼の思想を乗り越えることができない。」
「アランは、戦争を恐れて後退した世間の毅然たるモラリストたちを、書中で揶揄しているが、祖国愛というようなものを宣伝もしていなければ、正義人道のための戦などという言葉も何処にも書いていない。また、戦争の悲惨というものについても、そんなわかり切ったものに、わざわざ触れる必要がどこにあるか、といった調子である。戦争とは彼にとって勇気というものを使役する労働であり、戦争というものに、意味ありげな意味を擦り付ける必要など何処にもない。」(小林秀雄「アラン「戦争の思い出」」)
 アランは、労働によって、つまり現実社会で目前の義務を果たすことによって、あらゆる観念的欺瞞から免れている存在を、言葉の真の意味で労働者と呼び、そこから逃避してイデオロギーの幻想に精神をゆだねるものを悪しき意味でブルジョア、又は偽知識人とみなした。これがアランの思想の原点である。アランの次の言葉を、小林は共感を込めて引用する。
「(戦場で)幸い、僕は、軽薄な巴里の事なド少しもわからなかった。目に入る人たちは皆悩まし気で、平和を望んでいた。いずれ出征するという予想が、何もかも台無しにしてしまっているのだ、僕はそう言えると思う。戦争には労働があるというただその一事で、僕は戦争で慰められた。(中略)戦争の困難と危険との中では、僕の心はむしろ平静であった。徒な空想は、事実というもので、行く手を阻まれた。」
 第一次世界大戦は、少なくともヨーロッパにおいて初めての国民総力戦であり、毒ガスが使用され、一般庶民が犠牲になる大量死の戦争だった。この現実に対し、アランは銃後で祖国愛と普仏戦争に対するドイツへの復讐戦を叫ぶのでもなく、また、反戦平和を唱え「世界市民」としてふるまうのでもなく、無言で一国民として戦場に赴き、この残酷な戦争すらも「労働」として自ら担うことを選んだ。これは個人のモラルと社会的責任を同時に引き受けるフランス・モラリストの知的伝統に根差した行為であり、マルローやサルトル以後に喧伝される、知識人の政治参加の論理(要するに自分に近い政治党派への参加と宣伝)とは根本的に異なる。小林秀雄はこのアランの姿に、知識人が状況に対してとるべき態度の典型を見出したはずだ。しかし、小林とアランはやはり異なる道を歩んだ。祖国愛という観念を含むあらゆる政治イデオロギーから自立し、あくまで個人として行動し思索したアランと異なり、小林は、日本の近代的知識人の宿命として、近代を否定しつつ歴史に回帰する道を選ぶことになった。

『事変の新しさ』と豊臣秀吉論

 1940年8月、小林秀雄は『事変の新しさ』という文章を文藝春秋に発表した。ここで小林は、当時流行していた東亜共同体論や、これはいつの時代も語られる「新しい時代にふさわしい指導者待望論」などを全て一蹴している。そのようなイデオロギーや空語で現状が打破できるのならば誰も苦労はしない。そしてここで、小林は豊臣秀吉の文禄。慶長の役、いわゆる朝鮮遠征の歴史をこの時代に引き寄せようとする。
 ここで小林が述べる歴史的事例の一つ一つを現代の歴史観から評することは無意味だ。小林が行おうとしたことは、日本の歴史において、もっとも「非常時」「戦争」が日常であった戦国時代と、それを統一したのちに朝鮮、その先には中国遠征を試みた豊臣秀吉の「失敗」を、1940年という時代になぞらえることだった。
 小林は、秀吉の朝鮮遠征を、誇大妄想や、いかなる英雄にもありがちな晩年の判断ミスとは考えない。秀吉には充分な勝算も作戦もあり、しかし手ひどい失敗をした、ここに歴史というものの本質を見出そうとする。
「この太閤の誤算は、彼が年をとって耄碌してきたという様な消極的な誤算ではないのである。太閤は耄碌はしなかった。戦争の計画そのものが彼の有り余る精力を語っているわけです。彼が計算を誤ったのは、彼が取り組んだ事態が、全く新しい事態だったからであります。この新しい事態には、彼の豊富な知識は、何の役にも立たなかった。役に立たなかったばかりではない。事態を判断するのに大きな障害となった。つまり判断を誤らせたのは、彼の豊富な経験から割り出した正確な知識そのものだったといえるのであります。これは一つのパラドックスであります。」
「太閤の知識はまだ足りなかった、もし太閤がもっと豊富な知識を持っていたら、彼はおそらく成功したであろう、という風に呑気な考え方をなさらぬように願いたい。そうではない。知識が深く広かったなら、それだけいよいよ深く広く誤ったでありましょう。(中略)そういうパラドックスを孕んでいるものこそ、まさに人間の歴史なのであります。これは悲劇です。太閤のような天才は自ら恃むところも大きかった。したがって醸された悲劇も大きかった。これが悲劇の定法です。」(事変の新しさ)
 これは歴史というものの本質を知る人の言葉であろうが、この後、小林は織田信長の桶狭間の闘いを例に挙げ、歴史的な難局に対する心構えとして「難局をじかに眺め、難局を解釈する尤もらしい理論の如きものを一切介在させ」ずに、「理論と信念が一体となった時の、いわば僕らの精神の勇躍」を見出すことに求めている。これはハイデッガーを思わせる発想であり、さらに言えば戦後の実存主義をはるかに先取りしたものであるが、ここから小林はさらに1941年、『歴史と文学』にて、さらに自らの歴史観を深めていく。

『歴史と文学』

この『歴史と文学』にて、小林は当時の「国体概念」や「歴史(国体)教育」などに対してもその欺瞞性を的確に批判しているが、その姿勢は近代主義的な歴史観からの批判ではなく、いかなる「歴史観」、歴史を一定の価値観により「解釈」することを否定する視点からなされている。そこから行われているのが、芥川龍之介の「将軍」批判であり、小林はそこでの乃木批判を、近代的知識人芥川が、前近代の価値観の象徴として乃木将軍を批判する浅薄なものとみなし、先に紹介したウオッシュバーンの本を高く評価する。
小林自身、かって学生時代。芥川の小説を評価していたことを告白している。しかし、今再読した小林は「何の興味も起こらなかった。どうして、こんなものが出来上がってしまったのか、またどうして20年前の自分には、こういうものが面白く思われたのか、僕はそんなことをあれこれと考えました。」そして、ウオッシュバーンにあって芥川にないものは「乃木将軍という異常な精神力を持った人間が演じねばならなかった異常な悲劇というものを洞察し、その洞察の上に立って全ての事例を見ている」点に置いている。それは日露戦争の戦場における兵士たちの惨状を、悲劇として背負わねばならなかった人間の本質にかかわる問題だと小林には思えた。そして芥川が、乃木将軍が自決の前に記念撮影をしたことを、ある種の自己顕示と見たことを次のように批判した。
「僕は乃木将軍という人は、内村鑑三などと同じ性質の、明治が生んだ一番純粋な痛烈な理想家だと思いますが、そういう人にとって、自殺とは、大願の成就にほかならず、記念撮影は愚か、何をする余裕だって、いくらでもあったのである。余裕のないほうが人間らしいなどというのは、誠に不思議な考え方である。」(歴史と文学)
 日露戦争に際し、単なる平和主義ではなく徹底した宗教的信念から非戦論を訴えた内村と、乃木将軍を同列に純粋な理想化として配置するところに、思想を越えて歴史の悲劇と向き合う殉教者の立場に、決してイデオロギー的な裁断をしない小林の姿勢が表れている。そしてここから、小林の著名な言説、「歴史は子供を亡くした母親の嘆き」が続く。 
「歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている。歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念というものであって、決して因果の鎖という様なものではないと思います。それは、例えば、子供に死なれた母親は、子供の死という歴史事実に対し、どういう風な態度をとるか、を考えてみれば、明らかな事でしょう。母親にとって、歴史事実とは、子供の死という出来事が、幾時、何処で、どういう原因で、どんな条件の下に起ったかという、単にそれだけのものではあるまい。かけ代えのない命が、取返しがつかず失われて了ったという感情がこれに伴わなければ、歴史事実としての意味を生じますまい。」
「若しこの感情がなければ、子供の死という出来事の成り立ちが、どんなにくわしく説明出来たところで、子供の面影が、今もなお眼の前にチラつくというわけには参るまい。歴史事実とは、嘗て或る出来事が在ったというだけでは足りぬ、今もなおその出来事が在る事が感じられなければ仕方がない。母親は、それをよく知っている筈です。」
「死なしたくない子供に死なれたからこそ、母親の心に子供の死の必然な事がこたえるのではないですか。僕等の望む自由や偶然が、打ち砕かれる処に、そこの処だけに、僕等は歴史の必然を経験するのである。僕等が抵抗するから、歴史の必然は現れる、僕等は抵抗を決して止めない、だから歴史は必然たる事を止めないのであります。これは、頭脳が編み出した因果関係という様なものには何んの関係もないものであって、この経験は、誰の日常生活にも親しく、誰の胸にもある素朴な歴史感情を作っている。若しそうでなければ、僕等は、運命という意味深長な言葉を発明した筈がないのであります。」(歴史と文学)
 このような文章は、論理や批評を越えて「味わう」しかないもの、まさに批評が文学そのものと一体化したような奇跡的な文章である。おそらく兵士として前線に赴いたものの中には、大東亜戦争は聖戦だというスローガンや勇猛な戦時宣伝を受け入れずとも、この小林の言葉を慰めに歴史の悲劇に突き進んでいった若者もいたに違いない。戦後、小林の足元にも及ばぬ群小批評家が、小林の片言隻句をとらえて、まるで戦争協力であるかのようにみなしたり、また、小林が間違った戦争に反対しなかったとを咎めるような言説が現れた。それに対し「利口な奴らは反省するがよい、僕は馬鹿だから反省などしない」という、ある意味挑発的な言動で小林が答える場面もあった。しかし、戦後という時代風潮への小林の本質的な反論は、戦後間もない時に語られた「私の人生観」の次の言葉であろう。
「今日の様な批評時代になりますと、人々は自分の思い出さえ、批評意識によって、滅茶滅茶にしているのであります。戦に破れた事が、うまく思い出せないのである。その代り、過去の批判だとか清算だとかいう事が、盛んに言われる。これは思い出す事ではない。批判とか清算とかの名の下に、要するに過去は別様であり得たであろうという風に過去を扱っているのです。」
「戦の日の自分は、今日の平和時の同じ自分だ。二度と生きてみる事は、決して出来ぬ命の持続がある筈である。無智は、知ってみれば幻であったか。誤りは、正してみれば無意味であったか。実に子供らしい考えである。軽薄な進歩主義を生む、かような考えは、私達がその日その日を取返しがつかず生きているという事に関する、大事な或る内的感覚の欠如から来ているのであります。」
「一日一日を取り返しがつかず生きている」からこそ『後悔』や「反省」などは欺瞞以外の何ものでもない。いや「正しさ」などというものもイデオロギーに過ぎない。
「宮本武蔵の「独行道(どつこうどう)」のなかの一条に「我事に於て後悔せず」という言葉がある。これは勿論一つのパラドックスでありまして、自分はつねに慎重に正しく行動して来たから、世人の様に後悔などはせぬという様な浅薄な意味ではない。今日の言葉で申せば、自己批判だとか自己清算だとかいうものは、皆嘘の皮であると、武蔵は言っているのだ。」
「それは、今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替えのない命の持続感というものを持て、という事になるでしょう。そこに行為の極意がある(中略)行為は別々だが、それに賭けた命はいつも同じだ、その同じ姿を行為の緊張感の裡(うち)に悟得する、かくの如きが、あのパラドックスの語る武蔵の自己認識なのだと考えます。」(私の人生観)
 小林秀雄が行おうとしたのは、近代的知識人がどこまでも自らのよって立つ価値観を相対化しつつ、伝統の本質に回帰することによって、かえって伝統の中から新たな価値観を近代を通じて再復興する思想的営為だった。ここで示される歴史への「極意」は、いまだに揺るがぬ思想的巨峰として私たちの眼前にあり続けている(終)
 

クリエイターサポート機能を利用しています。励みになりますので、よろしければお願いいたします。