あなたの文章は「アート」ですか? 「デザイン」ですか?

 祝前日。仕事も落ち着き始め、浮かれた気分でもって友達に連絡。「酒でもいかがでしょうか」と。誘った相手は、最近仲良くなった女性、空間デザインを仕事にしているセンスの良い方。すぐに連絡が返ってきた。『いいね、今日は早い時間から飲んでみようか』 自分と同じ匂いのする酒飲みは、これだから良い。話が早い。「じゃあ、17:30 下北沢南口」と送ると、いとまもなくたちまち、なんなら同時のタイミングで『17:30』とメッセージ。そのまんま結婚しちまおうかと思った。

 普段から待ち合わせの時間にぴったり間に合わせられない僕は、この日に限って珍しく、40分も前に到着してしまった。暇だ。とことん暇だ。コンビニにて発泡酒を買い、暇を紛らわせるためにもずるずる散歩しよう。出口の目の前にあるセブンイレブン、金麦の500ml缶を購入。まっすぐ行ってまっすぐ戻れば、きっと迷うことは無い。当てもなく歩を進めた。

 ボロいスニーカーの踵を引き摺りながら、街の大きな通りをゆっくり歩く。平日昼過ぎだというのに、人がわんさか集まっていた。最近は、だるんと長いベルトを腰からぶら下げた男の子が多い気がする。ちょっと前に流行ったファッションであった。あー、そうかそうか。アーリーアダプターやインフルエンサーから一般人に降りてくるまでは、少々時間がかかる。時差がある。そうだな。

 どうでも良いことを考えているうちに、ちょっと遠くの方まで来てしまった。時計は17:20を指している。そんなに歩いたもんかねと思い、少し焦りながら復路の上。ばたばた歩いていると、横目に古臭い焼き鳥屋が入り込んできた。なんとなく、ここにしようと思った。

 早歩きの甲斐もあり、到着は17:30。先ほど僕が立っていた南口のコンビニエンスストアには、まだ彼女は来ていないようだった。携帯を見る。『17:35到着』とあった。まったく、どこまでちょうど良いのだ。翌日世田谷区役所に行って婚約届でも持ってこようと思ったが、不幸なのか幸いなのか、明日は休日であった。だから酒を飲むんである。

 35分、彼女が到着。「ぴったりだね」『そりゃそうだ』「30分の約束だけどね」『いやー、電車がさ 電車が大変なことになってたんだよ』「燃えてたの?」『そんな訳無いじゃん』「そうだよね~」 どうしようも無い会話をしながら、さっきの焼き鳥屋を思い出す。「そうだ さっき、良い感じの焼き鳥屋さん見つけたよ そこにしよう」『いいね 何でも良い』 もっとも話が早い奴である。

 ほどなくして店に着いた僕たちは、一番奥の席に案内され、ボロの木製椅子に腰を掛けた。「大瓶赤星を一本と、なんだ、ハツとレバーとカシラとハラミ、全部二本ずつで あと煮込みひとつで あ、ビールのグラスは2つでお願いします」 お互いタバコに火を点けて、話を始める。

 「最近さー、文章を書けなくなっちゃったんだよ」『どうして?』「なんか、誰かと同じようなの書いてもしょうがないじゃん でも、そうしようと思って自分の考えばっか書いてたら、なんか、ずーっと自分語りしてるような感じになっちゃって」『あー、うんうん』「でさ、何かを参考にしようと思って、他の人の文章を読んだりしてみたんだよ」『それは、本?』「いや、なんか友達のブログとか ちょっと知ってる人の文章とか」『そうなんだ で、それはどうだった?』「なんか、俺、"高みの見物"とか "鼻高々天狗になってます" とかじゃないんだけど、ほとんどどうでも良くて 響くのは勿論ちょくちょくあるだけど、なんでこれ書いて公開したのかなと思うものばっかりだったんだ」『それはまずいね』

  まずい。それはまずいのであった。どんなものにも多少は良い部分があって、それは公正に評価されるべきである。が、最近の僕はそれができなくなっていた。自分の文章への自信が膨らんでいく間に、どんどん閉鎖的になってしまっていた。深い鈍色の色眼鏡・コンタクトレンズのようなのが網膜にべったり張り付くというか、漉し器の網目がぎゅうぎゅうに詰まってボウルみたいになってしまっているというか、そんな感じなのだった。

 彼女は『うーん』と考え、僕にこう言った。

『否定をすることは悪いことじゃない 肯定するばっかの機械みたいな人よりもずっと健やかで、そもそも、否定することで選んでいるのだというのを忘れちゃダメだよ 三浦くんは間違ってない』

 救われた、と思った。ちょっと驚いた。ビールからは泡が消え、小さいグラスはびちゃびちゃに汗をかいている。「そうなんですかねぇ」と言った僕に被せるように、『アートとデザインの違いもあるかもね』と。

 『デザインにはゴールがあるの』「うん」『解決したい問題があって、それを何とかするため、っていう目的があるのね』「うんうんうん」『アートには、それが無い』「なんというか、自己表現みたいな感じだ」『そうそう その通り それは、マスターベーションみたいになっちゃう可能性を含んでる 人のオナニーなんて、絶対見たくないじゃん アートが全部オナニーだ、と言ってる訳じゃないよ』

 「あらー」と言った。たしかにー、となった。他の人の文章を読んで、そういうことを思ってきたのであった。(なんでこの人、この文章書いたんだろう 調べもしないで付け焼き刃、文章のリズムもちくはぐ、選ぶ言葉ひとつひとつに理由はあるんだろうか)なんて思ってきた。「雑なオナニーなんだよ!それは!」と思ってきた。それは、自尊心を保つ方法のひとつでもあり、実際は、とてつもないブーメランでもあった。

 僕には、自分の文章でもって解決したい問題なんか、ひとつも無い。その点、"デザイン" ではなく、"アート" の形を保っていたいと思う。自己表現として、ただ、マスターベーションにならない程度に、思うままどんどん書いていきたい。先日、国を挙げて盛り上がった冬季五輪、フィギュアスケート男子シングルで金メダルを獲得した羽生結弦選手はこう言った。

バレエとかミュージカルとかの芸術は正しい技術、徹底された基礎、表現力がないと(成り立たない)。すべてにおいて正しい技術を使い、それを芸術として見せることが一番大切なことだと思っている。

羽生結弦が語るフィギュア芸術論「難しいジャンプがあるから芸術が成り立っている」
http://www.hochi.co.jp/sports/winter/20180227-OHT1T50092.html

 これは、バレエやミュージカルに限った話ではない。あらゆる芸術に言えることであり、文章についても同じことが言えるはずである。何でもアリじゃない。間違った技術でもって、ぐらぐらな基礎と乏しい表現力をもとに文章を書くなんて、それはもう芸術どころの話じゃないのだ。

 自己表現として、少なくとも芸術としての文章を書くのであれば、それに適した知識・技術・基礎・表現力を身につけなくてはならない。自らを「真っ当だぜ」と褒めちぎるのではないが、僕がこれまで他人の文章を読みながら続けてきた「否定」は、アートまがいのエッセイくずれみたいなのに対するものであった。辛辣ではあるが、本当だ。個人に向けて批判をぶつけているわけではない。ただ、僕は絶対にそうなりたくないと思う。

 この文章は、自分に対する確認作業の賜物であり、問題提起であり、その点アートであったんじゃないか知らん。あなたの文章は、「アート」ですか?「デザイン」ですか?

頂いたお金で、酒と本を買いに行きます。ありがとうございます。