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この地球の「奥の細道」を辿るようにして、歩くことについて語る

歩くことは誰にでも出来る易しい行為だが、歩くことについて語ることとなると、歩くことほど容易ではない。

「歩く」とはなんだろう。

歩くことは、人間が誕生した瞬間から、人間と共にある行為だ。
直立二足歩行によって人間と他の生物を区別するならば、人間とはすなわち二本の足で「歩く」動物ということになる。

アフリカで誕生したとされる人類の祖先は、主に大陸を歩いて移動して世界各地に広がった。歩くことは、いつも彼らの生活のすぐ横にあった。
世界の全ての地域で、ほぼ全ての人が、何百万年もの間、歩き続けてきた。人間がそこにいれば、そこに「歩く」がある。古代エジプト、中世ヨーロッパ、近代も現代も、人間の歴史は「歩く」と共にある。

「歩く」はそこに必ず存在しながら、衣、食、住のように、痕跡を残すこともない。
生活の痕跡の隙間に、粒子のように存在している。人間が消えると同時に「歩く」も消える。考古学者たちは、残された痕跡から古代人たちの際立った生活様式を推測することは出来ても、彼らが実際どのように歌い、笑い、話し、そして愛し合っていたかを語ることができないように、どのように歩いていたかを語ることも出来ないだろう。彼らが歩くことにどんな意味を持っていたかも。

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人間の根源を定義する行為でありながら、あまりに身近で普遍的で、広大であるがゆえに、人類の歩行の歴史というものが語られることは、ほぼなかった。

「歩行の歴史は書かれざる秘密の歴史だ」
    (レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』左右社 p.10)

アメリカの作家、レベッカ・ソルニットは果敢にもこの歴史に挑んだ。
彼女は「歩くこと」が人類にもたらしてきた秘密について、世界で初めて語ろうとした作家かもしれない。
詩、エッセイ、思索、小説、伝承、語り、歌・・・ 様々な場所で、様々な時間に、断片的にしか語られてこなかった歩行の破片を、森の小道のパンくずを拾い集めるようにゆっくりと辿りながら、歩くことが人間の精神にもたらした何かを探して、彼女は歩く。その果てしのない道のりを、僕は想う。

レベッカ・ソルニットの『ウォークス 歩くことの精神史』は、約500ページもある大作と言っていいと思う。しかしそれでも、レベッカが語り得たのは、アメリカ合衆国の人々が今日まで辿ってきた、人類の歴史でみればほんのわずかな道程にすぎない。

「歩行の歴史は全人類の歴史であって、活字にできるのはせいぜい、書き手のまわりにあるいくつかの踏み慣らされた道を指し示すことだ。つまり、わたしがこれからたどる様々な小径は、膨大な道のごく一部でしかない。」
                               (同上 p.12)

これは謙遜ではなく、事実を語っている。
歩くことについて語るとき、誰もでも自分の周りの道を示すことしかできないだろう。
つまり日本人である僕ならば、この世界の片隅の、日本というほんの小さな島国の、奥の細道を歩くように語ることしかできないということだ。

それは無力だろうけれども、でも恐らく、とても意味がある。

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『歩くことの精神史』の冒頭、「岬をたどりながら」と題された美しい少文に、僕は心から共鳴する。
「魂が震えるような」とは陳腐な表現かもしれないけれども、僕はそれを読んだ時、文字通り魂が震えた。
地球の裏側に、突然戦友を見つけることがある。
レベッカもまた「歩く人」なのだ。徹底的に歩き、歩きながら、歩くことについて徹底的に思考する人。
そして僕は彼女の言葉の中に、僕自身の言葉をいくつも発見した。

「歩く人」、歩くことについて思考する人は、同じ言葉を持つことが出来るのかもしれない。レベッカのように本にしなくても、僕のようにブログを書かなくても、同じ言葉を持つ仲間たちが、世界中にいるのかもしれない。
そうだとするならば、それは希望に違いない。

僕は地球の「奥の細道」で、この細道を歩くことについて語ろう。
地球の仲間たちに「歩く人」の言葉を届けよう。

過去に、現在に、未来に、どこまでも歩き続けた戦友たちの歩みを辿りながら、歩くことについて語り続けること。
それが「歩く人」の、唯一の仕事なのかもしれない。

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