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ふつう

ふつうになりたい。
星野源さんの「いのちの車窓から」を読んだ。
その中の「新垣結衣という人」という文章では、新垣結衣さんがどれだけ普通で素敵な女性なのか、ということが綴られていた。

俳優さんに限らず、年齢を重ねる毎に「普通」から遠ざかる人が多いのでは無いだろうか。

私自身、エゴにまみれた人間だ。
それなりの自覚はもっているから周囲から見たらもっとひどいのかもしれない。
なにをするにも「してあげた」感を抱いてしまう。
そしてやめればいいものをそれを表に出してしまう。
わたしは○○してあげましたよ、あなたのために、感謝してくださいね
と言わんばかりに。
今日だってそうだ。

テストがあった。わたしは同じ学年に友達はほとんどいないが
年上の先輩には積極的に関わることで可愛がってもらっている。
だから過去問も手に入れていた。
同い年の、そんなに仲良くない人にどうして過去問を共有しなければならないのか、自分だけ成績をあげてやろう、
そんな汚い心が働いていたにもかかわらず、
結局友達に過去問をもっていることをポロッと話すと全体のグループに送らざるをえない状況になり、全員に共有した。
そして、テストは見事過去問通りだった。
するとどうだ、わたしのおかげでみんな単位とれただろう、感謝してくれ
といわんばかりの感情がこみ上げてくる。あんなに共有するのをためらっていた汚い心の持ち主のくせに。

だから、このエッセイを読んでそんな自分がとても恥ずかしくなった。
だれかに認められたい、褒めてもらいたい、好かれたい、そんな想いに満ちあふれた私は、そんな対象となるにはほど遠い場所まで来てしまっているのではないだろうか。

最近、肝に銘じている言葉は「地に足をつける」だ。
すぐに浮き足だってしまう心を自制するため、ことある毎に「地に…足を…」という風に唱えている。
まあ効果もあまりなく結局浮ついているのだが。

しかし、今日からはこの言葉も追加だ。
「普通」
実は普通が一番難しいのではないだろうか。
自分は普通だと思いながら、どこか急激な展開を待ちわびている。
普通だといいながら普通じゃないことに憧れ続ける。
わたしの普通は、全然普通じゃ無い。
つくられたふつうは普通ではない。
ニュートラルな「普通」に生まれ変わろうと思う。

それはとてつもなく難しいことだろう。
せめて、「してあげてる」という感情を持たないよう、
もっと心の器を広くしたい。

これは宣誓だ。
わたしはいつか、「普通」になろうと思う。


新垣結衣さんも、また新垣結衣さんのことをそんな風に素敵だといえる星野源さんも、とても豊かで、魅力的な方だと思う。

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